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06.→
08.→
09.後。お触り注意。
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弱肉強食を謳いながら、強者だった筈の母はブリタニア皇室の中で蔑まれる存在だった。
他のどの皇妃よりもマリアンヌはブリタニアの皇妃だった。その実力と生まれ持った美貌は他の追随を許さず、騎士候という身分ながら皇帝の目に適った女性。強者こそが力。力ある者こそが強者。それを是とするブリタニアの中で、マリアンヌは完璧なブリタニア皇妃だっただろう。
……故に、彼女は血筋という力を強者である証と勘違いした者たちに、正しく言えば畏れられた。だからマリアンヌは常に皇室の中で孤立し、疎まれた。皇室に身を置く誰もが彼女の力に、いつ自身が破滅するか、恐れた。同じように恐怖していた者同士が暗黙の内に結託し、マリアンヌは力なき者として扱われた。それが皇室の中の力の在り方だった。
それでもマリアンヌは強者としての輝きを失うことはなかった。
死して尚、彼女の存在は彼女を恐れていた者たちに深い影を落としている。
彼女の息子は、娘よりも母親の面影を残していた。それは彼女自身を象徴する、漆黒の美しい黒髪を息子だけが引き継いだことが大きかったのかもしれないが、年々、母親を彷彿するように育つ息子を見て、彼女を思い出さない者はいなかった。
そして息子は母親を貶めた一部の皇族と貴族たちを深く憎んでいた。
純度の高いアメジストのような瞳を爛々と輝かせながら自分たちを見る双眸は、まるで息子を通して彼女が自分たちを怨みがましと見ているのではないかと恐ろしくなる。
しかし息子は現在、最も力をつけている第二皇子の庇護下にあり、おいそれと手を出せる立場にはない。第二皇子が異母弟にあたる彼女の息子を目に掛けているのは最早周知の事実であり、下手に息子に関して第二皇子に口を挟めばこちらの立場そのものが危ぶまれる。
賢明な彼らは、だから表立って息子のことを誹謗中傷することはなかった。
それがルルーシュにとっては陰湿だった。
シュナイゼルに与えられ、既に数年を過ごしている部屋は、そこそこに広く豪奢なものだ。一度、本国から離れてしまっていたこともあり、またアリエスの離宮に戻る訳にもいかなかったルルーシュは当初、こんなに豪華な部屋は使えない、身に余る、と主張したが、自分の面子のためにもここは譲歩して欲しいとシュナイゼル本人に言われ従う他なかった。
室内の扉から壁、天井に至るまでの装飾は華美ではないが、上品に彫られている。重厚、というほど重くはない。本物の上等な質が誂えられた空間。無論、家具や寝具、小さな日用品に至るまでそれは行き届いている。ルルーシュが嫌がることを承知の上だったのか、或いはシュナイゼルの趣味なのかは知らないが、それらは全て主張しない程度の装飾に落ち着いていた。しかし職人の腕の良さと愛着が感じられる家具などは、金銭だけでなく選ぶ者の審美感が問われる代物。それらが整然と並べられた部屋は、確かに不相応な気がしたけれど、ルルーシュはそれなりに気に入っていた。
これも異母兄シュナイゼルの気遣いだと思うと、ありがたいと思うのと同時に、どうして自分をこんなに良くしてくれるのだろうかという疑問を覚えずにはいられない。その疑問は、数年経った今も尚、ルルーシュに答えを与えてはいなかった。
そしてわからないが故に、ルルーシュは行き場のない感情を持て余すことがあった。
「………下種が……っ」
一人で過ごすには些か広い室内には、当然ながら専用のシャワールームも設置されている。大理石が敷き詰められたそこは、電灯が煌々と輝き狭い空間を照らしている。
その中でルルーシュは、洗面台に両手を押さえつけながら沈みそうになる体をどうにか保っていた。
睨み上げた鏡に映るのは、なんとも悪い顔色。鏡の中の自分と目があったことで、より一層、吐き気が催された。視界の端に映る(メイドが世話したのだろう)深紅の薔薇が、気に障って仕方がない。―――紅い薔薇は、母マリアンヌにとてもよく似合う花だったから。
黒い鴉羽のような毛。深い紫闇の眼。陶磁器のように白い肌。
改めて自分の顔を形成するパーツ、一つ一つに注視すれば、それは確かに母親から譲り受けたものなのだと認めざるを得ない。そうして全体を見ることで、今まで気付くことのなかった―――母の亡霊を、ルルーシュもまた見た気がした。
そのことに気付いたのは、否、気付かされたのは、先程シュナイゼルの元から自室へと戻る廊下でのことだった。
『ああ、ルルーシュ殿下。暫し、お時間を頂けませんか?』
あまり人気のない廊下でルルーシュを呼び止めたのは、妙に舐めずったような印象の声と、下卑た笑みだった。あからさまにこちらを見下ろした態度は、嫌悪感を抱くには十分で。
しかし声を掛けてきた相手の顔を見てしまえば、その身分と立場からルルーシュが楯つける相手ではなかった。
男は爵位もそこそこに高く、第二皇子支持に立つ名家の当主である。
シュナイゼルの庇護下に身を寄せているルルーシュがシュナイゼルを支持する権力者に逆らえるはずもなく、彼の機嫌を損ねるのも得策ではなくて。内心では相手への嫌悪感を剥き出しにしながらも、どうにか対外的な笑みを繕った。
何か御用でしょうか、閣下―――頭は低く、態度はできるだけ謙虚に。なるべく波風は立てたくない。しかし相手はそんなルルーシュの態度を愉快そうに、侮蔑を持って、或いは恍惚感だったのかもしれない、見下して嗤った。
男は空いてる部屋にルルーシュを招き入れ、ソファに座らせた。ただの貴族と皇族ならば、皇族であるルルーシュの方が位は高い筈である。しかし男は態度ではルルーシュを敬っていたところでそれが慇懃無礼であることは見え透いており、ルルーシュもまたそれを甘受した。この場合、名目の身分よりも実質の権力が勝っていた。
ルルーシュは再び感情の篭もらない声で、何か御用でしょうか、閣下。と問うた。
『いえ、特に用件はないのですよルルーシュ様。ただ、最近のルルーシュ様の活躍は目覚ましく、シュナイゼル殿下もお喜びになられているだろうと…―――いえ、個人的に、お話がしたかったのですよ、ルルーシュ様と』
男は人の好い笑みを浮かべた。しかしルルーシュの目にはそれが下心のあるものにしか映らなかった。
更に室内に入った瞬間、馴れ馴れしくなった男の口調が気持ち悪い。男の年頃はおそらく壮年期を過ぎた頃だろうて、貫禄は確かにある。しかしルルーシュを舐め回すように検分する視線は様々な思惑が入り交じっているようにも見え、ルルーシュは座り心地が酷く悪かった。
できるならば早くこの場を去りたい。そう思ったルルーシュは、自分などが閣下とお話しするなど畏れ多い…と、謙遜により牽制。男はそれを従順な態度と受け取ったのか、満足そうに頷いた。
『何を仰いますか、ルルーシュ様。あなたは何れシュナイゼル殿下の片腕となられるお方……ブリタニアもその掌中に収めることは夢ではありますまい?』
そこで男は動いた。
椅子から立ち上がり、男はルルーシュの背後へと回る。相手が何と言おうと、相手よりも弱い立場であるルルーシュは席を立つことも許されず、男の動きを黙って受け入れるしかない。
しかし固く膝の上で組んでいた両の手に、男の汗ばんだ手が乗せられた瞬間、ルルーシュは不覚にも身体を跳ねさせた。その反応が男の期待通りだったのか、そのまま顔をルルーシュの首元へと近付ける。耳元に息が吹き掛かるほどの距離まで近付いてきた男に、ルルーシュは虫酸が走る思いと、立ち上がって殴ってしてしまいたい衝動さえ覚えた。野太い、低い、厭らしい声が耳元に囁きかけられた時は、震えが走り嫌悪の余り嘔吐さえしてしまいそうだった。
『―――ああ、マリアンヌ皇妃もさぞや喜ばれてることでしょう』
その瞬間、ルルーシュの中の嫌悪感や嘔吐感、負の感情が全て頂点に昇り詰めた。激情は沸点に到達し、カタカタと震える歯列に、男は何を勘違いしたのか宥めるようにルルーシュの身体を触る。
限界はとうに訪れていた。それでも尚、ルルーシュは動かなかった。動けなかった。
『マリアンヌ皇妃によく似て美しくお育ちになった。貴方の母君は、実に麗しかった―――貴方も、その美しい顔と母親譲りの身体でシュナイゼル殿下に取り入ったのでしょう?』
外界がまるで切り離されたような感覚を覚えながら、ルルーシュは怒りという感情が行き過ぎると静かになることを知った。
室内の灯りは最低限のものしか灯されてないことに、今気付く。男が最初からそういう意図を持ってルルーシュをこの部屋に招き入れたことは明白で、だからといって最早、男に対してルルーシュがどうこう新たな感情を芽生えさせることはなかった。
どことなく焦点が合わない視点でルルーシュは部屋を見回す。確か、ここは客室だったなと朧気に思い出す。それにしては随分と趣味の悪い部屋だと感想を抱き、シュナイゼルにしては珍しいことだと思った。絨毯や壁の色は毒々しく、全く調和がとれていない。帳には無駄な装飾ばかりが吊され、それも存在を主張するばかりで決して見目落ち着く物ではなかった。飾られている花も、けばけばしいものが我も我もと咲き誇る様は、下品としか言いようがない。
ひょっとしたら、目の前の男のような存在の為にシュナイゼルが用意されたのかもしれない。或いは勝手に用意したのか―――どうでもいいことを考えながら、ルルーシュは次第に頭が冷え切ったのを実感した。
男が執拗な触り方でルルーシュの首をまさぐりそのまま胸に降りた手が、衣服の中に手を差し入れようとした、その時だった。
『―――閣下。私を誰だとお思いですか?』
ルルーシュの声音は一変していた。しかし丁寧な物言いは変わらないから、男は違和感を覚えながらもその正体は掴めない。ある程度の抵抗は予測していただろうから、些細なこととしか思っても居ないかも知れない。
男は一度、ルルーシュから手を放した。そのままルルーシュの頭部を見下ろしながら口を開く。男にとってこの場での強者がどちらかなど疑う余地はなかった。
『誰とは…どういう意味ですかな?ルルーシュ様』
『そう、私はルルーシュ。…ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアという名前を持っていることをご存知でしたか?』
『これは…また奇怪なことを仰る。そう、貴方は確かにルルーシュ・ヴィ・ブリタニア殿下……しかしそれがどうか致しましたか?』
男は嘲る色を最早隠さなかった。例えブリタニアの冠を持とうと、所詮は庶子の子―――男は、ルルーシュを完全に侮っていた。正しく言えば、ブリタニアという名前が持つ真の意味を、己が権力者と振る舞う故に、見失っていた。
『それでは貴方が今していることは、不敬罪として問われてもおかしくはありませんね』
『……はっ、これはまた何を仰るかと思えば!まさか貴方が私を訴えて、それが罷り通るとでも?……ご冗談を、ルルーシュ様。いくら貴方が殿下と名の付くご身分であっても、実質は……』
男の科白を中断するかのように、ルルーシュは立ち上がった。細身の身体には威圧感はなく、内心で僅かに驚愕した男もその頼りない背中に再び内心でほっと息を吐く。まだ14、5にも満たない子供でしかないルルーシュ。しかし、それはルルーシュが男の方へと振り返った瞬間、男は何事かと目を見開いた。
『実質は、何でしょうか閣下。……まさか、また、母上を侮辱するような言葉を並べる気ではありませんよね?』
気圧された。萎縮した。完全に、飲まれた。
男は真正面を向いたルルーシュにたじろいだ。笑みを刻みながら、こちらを見下す視線は先程の自分のそれとは比べ物にならないと実感することは容易く。
これ以上、男が彼の言うとおりマリアンヌを侮辱するような言葉を口にすれば、断罪が下ることは確実だと思わせられる伶俐な瞳。“母親譲り”の気高さはその存在で矮小な男を嘲笑している。ルルーシュが纏った雰囲気は、14、5の少年のものとはかけ離れていた。
『閣下には感謝致しましょう。貴方は将来、私がシュナイゼル兄上の片腕になると認めて下さった。ブリタニアをも掌中に収めんと、予言して下さった。―――ならば、ご期待に添えて見せましょう』
この瞬間、男は己の運命を悟った。近い内、自分は目の前の少年に失脚させられるのではあるまいか。―――何を馬鹿な、そう思おうとしても、ルルーシュの雰囲気を前にして、男にその不安を打ち消すだけの根拠を見出すことは出来なかった。
呆然とする男を見捨てるようにして、ルルーシュはその部屋を去った。
―――過刻のことを思い出したルルーシュは、気持ちを落ち着けるだけの時間を置いていた。
乳白色の中に斑点が浮かぶ大理石から再び目を放し、顔を上げるとやはりそこにあるのは己の顔。そこに疲労の色が浮かんでいることにルルーシュは安堵する。
母は、ルルーシュに疲れたような表情を一時たりとも見せたことがなかったからだ。…それは短い記憶の中でだけれども。
(けれど、母さんがあんな目に遭っていなかったとも、言い切れない)
ルルーシュの中でマリアンヌの記憶はいつでも穏やかで、そして強い女性だった。他の皇族や貴族の陰口や蔑む態度に屈することはなく、毅然と立っていた。時に見せる強靱さは、ルルーシュにとって憧れだった。
しかし母は女性である。男である自分があのような目に遭い、更に屈辱的な事を言われた。マリアンヌにそう言ったことがなかったとは、あり得ないだろう。
それでもマリアンヌは、いつも自分やナナリーにとって優しい母だった。
「……かあ、さん」
磨かれた鏡面にルルーシュは手を伸ばす。すると鏡面の中のルルーシュは、対称的に全く同じ動作をし、鏡面越しに指が触れた。
その感触は冷たい。しかし自分が母親と似ていると暗示を掛けた今では、まるで母の指を思い出すかのようで。
ルルーシュはそれ以上、母に似ている自分の姿を鏡の中に見ることができず、再び顔を伏せた。
「守れなくて、ごめんなさい………っ」
ずり、と指が滑れば、摩擦熱が生じた。痛みにも似たそれは、しかし痛みとは感知されない。
鏡の中に母を見ることは、己の無力を痛感せずにはいられない。どうして、何故、がせめぎ合い、その結果としてルルーシュが辿り着く先はひとつしかなかった。
(――――ナナリーは、ナナリーだけは)
母を助けられなかった贖罪になりはしないだろうが、せめて残されたものだけは守らなければならない。
ナナリーも、母の誇りも。
覚悟は決めた。固まった、という方が恐らく正しい。
その為に異母兄を利用することになろうとも、構わない。否、あの異母兄ならば利用しようとする己さえも、手の内なのだろうけれど―――そう思うと、ルルーシュの心はほんの少しだけ軽くなった。
ブリタニアの完全たる強者になるまでは、まだ計り知れない年月を必要としなければならなかったけれど。
20. 鏡に映る姿に抱くのはどうしようもない吐き気だけ
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ルル悩む。不安定なお年頃。
きな子/2007.10.05