与えたのは、
「――ルルーシュがシュナイゼル兄上の下についてから、早いものでもう2年ですか。……どうですか? あれの様子は」
ブリタニアの魔女。そんな渾名で他国からは畏怖を、自国からは憧憬を集める皇女は、いつもの猛々しい形を潜めて、その席に座っていた。相対するのは、ブリタニアで実権を握りつつある二番目の皇子。兄妹とはいえ、異腹であれば他人と変わらない。このブリタニア皇統に連なる一家の中では、相手を血の繋がりのある呼称で呼ぼうともそれは形だけでしかないだろう。
そして同腹の兄弟を持たない二番目の皇子は、数多い弟妹に対しても分け隔てなく差別しないことで有名だった。
実力さえあれば、庶子の子であろうとも構わない。己の役に立つならば、その力を行使できるだけの立場を与えてやる。人にしろ物にしろ状況にしろ、価値と場面を見分けるのに優れていた皇子は、確かに上に立つに相応しい実力の持ち主だった。
「ああ、健気に頑張っているよ」
「健気に、ですか」
「下心がないわけではないけど、立場を弁えた上で私の役に立とうとしてくれているから気持ちも良い。健気とは言わないかい?」
コーネリアはちらりと視線を逸らした。
「……そう、ですね。ルルーシュは昔から優秀でしたが、どこか一歩引いていたところがあったというか」
カップを揺らし、軽く口を付ける。口にほんの僅かな液体を含んだ時、正面でシュナイゼルがクスリと笑った。
顔を上げたコーネリアが見たのは、自分と同じようにカップを口にしている男の姿。
「私はね、コーネリア。あの子の価値を誰よりもわかっていると思っているんだよ」
「……は?」
コーネリアはカップを置く。シュナイゼルはもう一口、注がれた茶を飲む。
「……それはどういう意味でしょうか? 兄上」
――誰よりもわかっている。それはコーネリアよりも、と言外に表した言葉。
「君は失敗したね、コーネリア。ルルーシュを手元に置いておくことを」
「……私が、失敗した、と?」
「まあ原因は君ではなかったかもしれないけど、それでも情に流されて手放したのは君だ。そのことを悔いたことはないかい?」
「それは……」
コーネリアはまた視線を逸らした。
ルルーシュの最近の成長は目覚ましい。シュナイゼルの下で着実に力をつけている彼は、シュナイゼルの補佐として名前を知られつつある。いずれは彼自身、シュナイゼルの右腕として大きな権力を手にするのではないか――庶子出の母を持つ彼は貴族の受けはあまり良くなかったが、いずれ民衆に名前が知れるようになればその支持は自然とついてくるだろうと説く者も少なくない。彼の母、マリアンヌ皇妃の評判は依然として高いものだったから、ある程度の実績を作ることさえできればルルーシュの民衆による支持は約束されたものだった。
そのことをコーネリアは理解してないわけではなかった。そうでなくともルルーシュの知略はなかなか目を見張るものがあり、側近として置けば軍を直接指示する立場にあったコーネリアの役に存分に立ったであろう。自分の立場を、そして将来を考えるならば、ルルーシュは欲しい人材であったのは確かだった。
けれどコーネリアは自分の下を離れると言ってきたルルーシュを引き留めることはできなかった。
彼女がルルーシュを引き留めることができなかった理由のひとつは、ルルーシュ自身のことを思えばこそ。軍属である自分よりも中枢に近い異母兄シュナイゼルの下に付いた方がルルーシュは力を発揮できるであろうと。自分では持て余すことになるのではないか――それはルルーシュにとってもコーネリアにとってもよくないことで。
そしてもうひとつは、コーネリアの実妹ユーフェミアにあった。
ルルーシュとユーフェミアの仲が兄妹と言うべきものでは収まらない枠に入りつつあったことを、見守る立場にあったコーネリアは気付かない訳にはいかなかった。
ブリタニア皇家の中では例え父親が同じであっても母親が違うことは他人と認識するしかない。それだけ兄姉弟妹が多い。故に、例え片方だけ同じ血を分けた異母兄妹であろうとも、ただの男女と同意義であった。
ルルーシュはその危険に気付いていた。だから彼は姉たるコーネリアに、シュナイゼルの下へ移りたいのだと直訴した。そしてコーネリアもその直訴を受け、やはりと確認した。ユーフェミアはまだ幼い恋心に気付いてはいなかった。
別れるならば今の内だ。手遅れになる前に。
そう言うルルーシュに、本当にそれでいいのかと問うたのもまたコーネリアだった。彼女はルルーシュを気に入っていた。彼の母マリアンヌに憧れていたこともある。ルルーシュのことは可愛い弟だったし、将来も明るい素質がある。手放したくはないと思ったのも正直なところで、もしユーフェミアの傍に居ることに問題があるならば離れて暮らすだけでは済まないかと聞いた。或いは本当はルルーシュはユーフェミアと離れたくはないのではないかと。
コーネリアはそれが失敗だったことを悟った。
ルルーシュは、コーネリアが思っている以上に賢明だった。懸命でもあった。彼は既にユーフェミアのことを恋しく、愛していた。
『姉上、無理です。僕はもうユフィと一緒には居られません。このまま一緒にいればいずれユフィのことを傷つけてしまう。――姉上はそれが許せますか?』
コーネリアはユーフェミアのことを溺愛していた。ユーフェミアのことを傷つけるような輩が居れば、何をしてでも報復を下すだろう程に。
そしてルルーシュは、異母姉が許さない以上に、ユーフェミアのことを傷つける自分が許せないのだろう。
そのことがわかってしまうくらいに、コーネリアはルルーシュのことも愛していた。
『もし、姉上が僕に少しでも情を覚えて下さるならば、シュナイゼル兄上の所へ行くことを見逃して下さい。僕はもうこれ以上ユフィの傍に居たくないんです。僕はユフィから逃げたい。どう自分に言い聞かせたところで、ユフィとナナリーは違うことを思い知らずにはいられないんです』
だから、これ以上。手遅れになる前に。
――既にお前にとっては手遅れになってしまっていたのではないか。
コーネリアは口から突いて出てしまいそうだったそれを、すんでのところで堪えた。その代わりに彼女が発したのは、わかった、の一言。瞬間、ルルーシュが肩の荷を降ろしたようにほっと息を吐くのと――同時に、彼の瞳の中に過ぎった寂寥感には、気付かない振りをした。
この時のコーネリアは複雑だった。何かをルルーシュに押し付けてしまったのではないか、或いはこれが本当に最善だったのか? ルルーシュの逃げを許してしまったことは正しかったのか。
その答えは、未だ出ていない。
「……そう、ですね。私は後悔もしているかもしれません」
過去を振り返っていたコーネリアはシュナイゼルに視線を合わせることなく口を開いた。
惑っている自分を微笑みを堪えた顔で見ているだろう異母兄を見たくはない。
「ルルーシュを逃がすことで私も逃げたのかもしれない。……そしてルルーシュは貴方の下で、着実にブリタニアに染まりつつある」
「それはあの子が望んだことだ。そしてそれは私の利害と一致した。だからあの子に私は相応しい場を与えたまでだ」
シュナイゼルはいつだって穏やかな態度を崩さない。少なくともコーネリアが彼の表情に少しでも彼の心を見たことはない。彼がもし面構え通りに柔和な人格であれば、実戦にしろチェスのゲームにしろ、彼の思考から受ける印象と辻褄が合わない。この男ほど駒の使い方が上手い人間をコーネリアは知らない。薄く笑いながら効率よく駒を捨て目的を達成させる手腕には、恐怖を覚えたこともあった。
しかしコーネリアにとってシュナイゼルは信用に足る人物であった。そもそもこのブリタニアという国は強き者こそが力を振るえる完全な実力社会なのだから、シュナイゼルの能力は評価されて然るべきであり、軍属であるコーネリアにとってシュナイゼルは対立すべき相手ではなく利害も一致している。シュナイゼルもまたコーネリアのことはそれなりの評価をしている素振りを見せていたから、暫くは協力関係が保たれるであろう。――或いは、シュナイゼルにとってはコーネリアも、ルルーシュもまた手駒のひとつに過ぎないかもしれないけれど。
「……兄上。貴方はルルーシュをどうするつもりですか?」
腹違いの弟。憧れの人の息子は、素直で能力も高い。コーネリア自身も気に入っていた彼を、しかし自分の下で開花させてやることはできなかった。
ユーフェミアとの間に芽生えたものを認めてやることはコーネリアにもできなかったから。
「私はあの子が望むものがあるならばそれを叶える土俵を与えてやるまでだよ。そうして開花したものを巧く使ってやるのが、私の仕事だからね」
「……そこに兄弟の情は存在するのでしょうか?」
シュナイゼルはくつりと喉を鳴らした。コーネリアの問いが愉快だと言わんばかりに。
「これもひとつの情だとは思わないかい、コーネリア。私はルルーシュも君も可愛い弟妹だと思っているからね…――君たちの心情はできる限り汲んでやりたいと思っている。……これでは不満かな?」
「……いえ。…今は、その答えで納得しておくことにします」
そうしてシュナイゼルは再び笑い、続ける。
「それに私はルルーシュの価値を誰よりも理解しているつもりだと言っただろう? 私はあの子を下らない情で潰したくはないのだよ」
使える駒をひとつ。いずれはクイーンになるかもしれない程の素質を秘めたそれ。
下らない情ですか、とコーネリアは自虐的な笑みを浮かべた。
「それでは兄上。あなたがルルーシュに与えたのは」
「私はあの子の望みを叶えてあげたいだけだよ」
コーネリアは悟る。やはり自分は異母弟をこの男の下に差し出したことを後悔しているのだと。しかしその反面、安堵していた。コーネリアは既に知ってしまっていたから。見てしまっていたから。そしてそれを決して認めることはできなかったけれど、否定することもまたできなかったから。
(やはり私は逃げたのだな)
自嘲気味に心の奥で呟きながら冷めたお茶を飲み干す。対面側の男は相変わらず泰然とした様子を崩さない。
「兄上は私の心情までお見通しのようですね」
「さて、どうだろうね」
――知ってしまっていたからこそ、ひょっとしたら、という不安はいつまでもコーネリアから離れなかった。
「私は自分で思っていた以上にルルーシュのことが可愛いようです」
「そのようだな」
「ええ。ルルーシュもユーフェミアと同様に幸せにしてやりたい。ですから兄上にルルーシュをお任せするしかなかった」
ルルーシュの感情を否定して、切り捨てることがコーネリアにはできない。
「……私には既にこの選択が過ちにならないようにするしか出来ることはないのかもしれませんね」
或いは、最早力なく祈ることしかできないのかもしれないけれど。
「あの子たちが幸せにさえなれば………」
それでいいのだと。
どうしてか、その先を声に出して願うことはできなかった。
シュナイゼルはそんなコーネリアの様子を深く探ろうとはしなかった。気に留める程のことではないと判断したからか。
そのことがコーネリアの不安を煽ることになったのだが、正体の掴めないそれを口にすることはできない。ただ、消えない不安が確実にコーネリアの心に巣くっていた。
(今、この時のことを、後悔する日がくるのだろうか?)
ざわりと波たった胸の内を抑えようとカップを口元まで寄せたが、その中身は既に空でしかなかった。
与えられていたのは?
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初恋は死んだ
きな子/2008.01.13