朝、目覚めの気分は最悪だった。
 胸焼けは昨晩の酒が嫌な感じで残ったせいか。…飲んだ後に感情を高ぶらせるようなことが起こったことも大きいだろう。どちらかといえば頭痛や嘔吐感はそれほどでもない軽度のものではあったが、胸はむかつき気分は落ち着かない。目覚め一番からルルーシュはひどく不快感を覚えていた。
 何もやる気が出ず、せっかくの休日もこれでは台無しだ。
 全ての原因である男の顔をつい思い出したルルーシュは慌てて首を横に振る。
(あんな奴、思い出すな!!)
 余計、気分が悪くなるだけだ。
 とりあえず水が飲みたい。気怠い体をベッドから這い出し、頭を抱えながらキッチンへ向かう。1DKの作りの部屋は整然としていて飾り気もない。最近では頻繁に飲むようになってしまった胃薬は机の上に常備されていて、ミネラルウォーターで流し込む。
 備え付けの電話が光っていることに気付いたのはその時で、留守電を押せば、昨晩の日付と時間が流れる。ミネラルウォーターを飲み続けながら聞けば、それは異母兄からの珍しい伝言だった。
『ルルーシュ、いないのかい? ……君の行動に口を出すつもりはないが、あまり無茶はしないで欲しいと思っているよ』
 暗にルルーシュを心配する声音に、多少の罪悪感が芽生える。幼い頃からよく面倒を見てくれた異母兄は今なおルルーシュのことを大事にしてくれていて、下手な口出しはそれこそ一切してこないのはルルーシュを信頼してくれている証拠でもあって。そんな異母兄の心配をよそに、二日酔いになるほど飲だり、――思い出したくない、ましてや異母兄には絶対にいえないようなことをしでかしてしまったりいることなんて、絶対に口が裂けても言えやしない。しかし異母兄もルルーシュの状況が耳に入っているのは間違いなく、そうであるからこそルルーシュを心配するような内容の伝言なのだろう。
 異母兄の姿を思い出して、ルルーシュは申し訳なさを覚える。が。
『――明日の晩、父上が君に話しがあるようだ。迎えに行くから、家にいなさい。……もっとも、この伝言を聞いていたらの話しだけれどね』
 付け加えられていたのは異母兄なりの揶揄と配慮なのだろう。わざわざ携帯電話ではなく固定電話の方に伝言を残しているのも、ルルーシュが今晩までに家に帰らずこの留守電を聞いていない『可能性』を考慮してのこと。ならば迎えに来ると言っていた異母兄には悪いが、けれど逃げ口を用意してくれたのは異母兄なので、それに甘えることに決めたルルーシュは正午を前にした時計を確認してから出掛ける支度を始めた。
 父親の詐欺紛いの呼び出しになど、断じて二度と応じるつもりはなかった。


 ルルーシュは基本的に人ごみが嫌いだった。通勤に満員電車を使うなんて言語道断。例え大学を出たばかりの新入社員、それも事務系女子社員が住まうには分不相応な都内の一等地であろうとルルーシュは会社に徒歩で通える範囲にマンションを借りていた。故に、休日の行動範囲が普段と被るのは仕方なかったが、衣食住に必要な全てが揃う利便性があるのだから文句などあるわけもない。
 とりあえず本屋に寄って繁華街を適当にぶらつきながら、ルルーシュは夜までの時間潰しをどうしようかと考える。
 久しぶりに旧友にでも連絡を取って賭けチェスにでも行こうかとも思ったが(何せ先日、予期せぬ出費があったので多少懐事情が寂しい)どうも人に会う気分にもならなかった。無性に気分が落ち着かず何かしらで発散したくもあったが、下手な相手と打った日には余計に鬱憤が溜まりそうなのが嫌だった。
 さて、どうしようか。
 そう思っていた矢先に、面倒事が降り掛かってくるのは世の常だ。
「おネーサン、ひとり?」
 最初、ルルーシュはそれが自分に声をかけて来るものだとは思わず、素通りした。ちなみにこの手の声掛けをルルーシュがされることは頻繁だったのだけれど、気付かずスルーしていると7割は諦める。故にさらに声を掛けてくるのは、厄介なものばかりということにもなって。
「なぁ、おネーサン。こっち向いてよ」
 と、ルルーシュは唐突に肩を捕まれた。振り向かされた所にいたのは、男が3人。あまり柄の良くない連中であることは容姿で一目瞭然。反射的にルルーシュは眉を顰めたが、男たちは目を付けた女が思った以上の当たりであったことに口笛を吹いた。それがさらにルルーシュの不快感を増す。
「なあ一人で暇だろう? 俺達と遊ぼうぜ」
「……お前らみたいなのに相手をしている暇はない」
 この時、ルルーシュは非常に腹の虫の居所が悪かった。普段なら最初からあからさまにはならないのだが、タイミングが悪い。が、男たちはそんな強固な態度のルルーシュにも微動だにするどころか、逆に興奮したように迫り始めた。ルルーシュに睨まれれば萎縮する者も多いが、数と性別の有利でも感じているのか男たちは「そんなこと言わずに」と更に一歩、ルルーシュとの距離を詰める。
 腕力に持ち込まれれば勝ち目はない。それくらいのこと自覚しているルルーシュは、煩わしく自分の肩を掴んでくる腕を睥睨する。放せ、と言えば、つれないなと埒が明かない。相手を逆上させるだけとわかっていながら乱暴に男の手を払ったのは、不機嫌が頂点に達していたからだ。
 往来の真ん中でそんな扱いをされれば、男の癪にも触ったのだろう。再びルルーシュの腕を掴もうとした手――が、突如として動かなくなる。
 割り込んできたのは、場にそぐわない涼やかな声。
「嫌がってるんだから、止めてあげない?」
 声には微笑すら浮かんでいそうな音だった。
 それでも男が息を呑んだのは、掴まれた腕が一向に動かないことだ。痛みすら感じられないほどに、五本の指が男の筋肉に食い込んでいる。
 あとの男たちは、突然現れた青年に対して、腕を掴まれた仲間の男が微動だにさないことを訝しむ。ルルーシュはなにが起こったのかよくわからなかったが、男の背後から現れた見たことのある顔に「あっ」と驚きの声を上げる。そんなルルーシュの驚きも無視して、青年はルルーシュに話し掛ける。
「ルルーシュ、お待たせ」
 にっこりと、昨晩も見た、人の好い笑顔。が、続いた彼の言葉に、首を傾げる前に「は?」と口がぽかんと空いた。
「待ち合わせに遅れて怒ってたんだろ? ごめんね」
「…………?」
 覚えのない台詞にルルーシュはただ呆然と相手を見やるしかない。
 そんな様子に男たちも状況のおかしさに気付いたのか「おい」と声を上げる。
「人が先に誘ってんの、横から口出ししてくんなよ」
「自分のカノジョがナンパされて無視できる男がいると思いますか?」
 誰が、誰のカノジョだ――思いはしたものの、声になることはなかった。その前に、男たちが「カノジョぉ?」と大袈裟な声を上げる。
「へぇ? アンタ、コイツのこと知ってんの?」
 まるで端から青年の言い分を信じていない言葉だ。
 ――が。
 ルルーシュは青年を見る。
 彼は、真っ直ぐにルルーシュを見ていた。若緑の瞳。この時、初めてルルーシュは青年の双眸を見た。……いや。
「……ス、」
 唇が勝手に動く。
 脳裏に蘇るのは、真白いシーツと、健康的な肌色。鍛え上げられながらもしなやかな体は、自分とは違う男のものだった。
 発していた声。ルルーシュの耳に、それは溶けるように吹き込まれた。この場で聞いたものより、昨日聞いたものより、もっと低かった。それは確かにルルーシュの記憶に刻まれていた。
「スザク」
 発したルルーシュも、聞いた青年――スザクも、目を見開いた。
 男たちは思いの外、直ぐに過ぎ去った。スザクの力の弛んだ隙に払った腕が真っ赤になっていれば、面倒事は男たちもごめんだった。舌打ちをしながら去っていく男たちを確認したのは、互いに目の前の驚きに一拍入れたかったからだ。
 再び目を合わせた2人。先に表情を崩したのはスザクだった。
「………名前、覚えててくれたんだ」
 くしゃりと、少し目尻がたゆんでいる。子どもみたいな表情だ。一瞬、目を奪われていたことを自覚したルルーシュは慌てる。そもそも、スザクの名前を『思い出した』自分に驚愕していた。けれど今となってははっきり思い出せる。今までどうして忘れていたのか、不思議なくらいだ。
「……スザク…」
 これはルルーシュにとって不覚なような気がした。どうして忘れていたのか、或いは、どうして忘れていなかったのか。その理由がわからない。
 けれどそんなルルーシュの戸惑いを知らないスザクはさらに嬉しそうに笑みを深める。……ルルーシュにしてみればスザクがそんな顔をする理由もわからない。
「完全に忘れられているのかと思ってた」
「………忘れられるものなら、忘れていたかった」
 本音だった。
(あ)
 スザクの目元が弛む。
 その視線に耐えかねて、ルルーシュは俯く。
(……どうしてそんな顔するんだ…っ)
 わからない。スザクの示す表情の意味が読めない。ただ視線に耐えられなかった。
 思い、出さないといけない気がした。
 思い、出してはいけない気がした。
 なんだこれは。――こうなることが怖かったんだ。どこかで囁くルルーシュの声。
 無意識の内の葛藤が繰り広げられる。中断させたのは、スザクだった。
「ねぇ」
 声を掛けられてルルーシュは咄嗟に顔を上げる。そこにあったのはさっきのような表情ではなく、昨晩のように気安さの滲む人懐っこい顔。
「どうせなら、本当にデートしない?」
「………は?」
「暇、なんでしょ?」
 あっさりそんなことを言われればルルーシュは眉を顰めた。基本的に失礼な男なのは確かだ。
「お前と一緒にするな」
 フン、と顔を背けてみたが、そこでルルーシュはようやく思い至る。どうしてスザクがこんなタイミングよく現れたのか、あまりにも自然すぎて疑問に思うことすら忘れていた。
「…お前、こんな真昼間からどうしてこんな場所に?」
 スザクと出会ったのは二度。いずれも夜だ。偶然がこんなに続くものなのかと訝しめば、スザクは持っていたビニール袋をルルーシュに示した。
「あっ」
「まったく気付かないんだもんなぁ」
 それはルルーシュが先に寄った本屋の袋だった。その袋と、スザクの科白の意味。つまり彼は先からずっとルルーシュを追っていたというわけか。呆然とするルルーシュにスザクは苦笑。
「ここの本屋、大学が近いせいか専門書が揃ってるんだ。午前中、ゼミもあったし」
 ……そういえば、この近くの大学に通っていると言っていた覚えがあるルルーシュは、また思い出した内容に頭が痛くなる。だからルルーシュの会社近くの店で出会ってしまったし、会社近くの店でアルバイトをしていたのか。繋がった内容に(それでも偶然が過ぎるのは確かだ)眩暈さえ覚える。
 それよりもとスザクは続ける。
「さっきから別に約束もある感じじゃないし、ね、暇なら僕に付き合ってよ」
「………だから、暇なわけでは…」
 自分は夜まで時間を潰さなければならないのだ。…つまり、今現在はその時間潰しの手段を探している真っ最中であって。
「約束あるの?」
 なおも食い下がる相手にルルーシュは溜息。何か、大型犬のようなものに懐かれた気分だ。
「………」
 けれどルルーシュも大人しくスザクに付き合う気にはなれなかった。過日の過ちを思い出せば、再びこの男にのこのこ着いていくなんて馬鹿な尻軽女のすることのように思えてならない。
 スザクはルルーシュが思っていることを感じ取ったのか、「ああ」と言う。
「そんなに警戒しなくても何もしないよ。…それにちょっとした臨時収入があって、使い道を考えてたんだ」
「臨時収入?」
「うん。5万ほど」
 にっこりと言われ、ルルーシュの頬が引き攣る。……けれど、臨時出費を5万ほどしてしまったルルーシュは最近懐が軽くなっていたのも確かで。
 それ以上に、――何故だろうか。
 少しくらい、この男に付き合ってみてもいいかと出来心が芽生えてしまった。先ほど、面倒事を助けてもらった恩もないわけではない。
「………本当に、何もしないな?」
 確認するように窺えば、スザクは即答。
「神に誓って、君には触れません」
 両手を掲げ、ルルーシュに一歩の距離を置く。そのポーズがおかしくて、ルルーシュはつい吹き出してしまった。
 ほんの少し砕けたルルーシュの様子を見たスザクは、「それじゃあ行こうか」とルルーシュに背を向けた。
 スザクの顔が見えなくなったことで、一瞬、自分はまた迂闊なことをしているのではないかと戸惑いが生まれた。けれど足は勝手にスザクを追っていた。





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