いとしきみ



 その日、彼女はそこに居た。
 おそらく年の頃はスザクと変わらないのではないかと思った。多少童顔の毛があるスザクと、化粧ひとつで年齢のひとつやふたつ変わる女性だ。一見、年上のようにも見えたが、二十歳も越えて場所も場所なら例えいくつ年齢に差があろうと無礼講だ。
 出会いは都内のバーだ。
 就職も決まり、卒論の一次発表も無事に終わった。本腰を入れなければならないのはこれからだったが、とりあえず一次関門を突破して開放感に溢れていた為に友人と共に大学の近くにある行き付けのバーで気分良く飲んでいた。――ところで、目に入ったのが彼女だった。
 一瞬にして目を奪われていたのだと思う。後から思えば、それはただの一目惚れだったのだろう。が、その時のスザクはそれなりに酒も入っていたし気分も高揚していて、普段ならば気にして終わり、だったところ、本当に珍しい勢いで彼女の傍へと近寄っていた。
 彼女はひどく荒れていた。白いシャツにグレーの薄いストライプが入ったパンツルック。肩で乱雑に切られた真っ黒い髪。白い頬は酒がだいぶ入ったせいか些か赤くなっていて、それが余計な色を煽っているように見えた。グラスには青い透明の液体が入っていたから、おそらくカクテルでも飲んでいたのだろう。飲みやすさ故か、随分な勢いで飲んでいるそれはそれなりにアルコールを摂取したスザクの目からでも些か危うくも見える。
 どうやら一人のようだ。結構な時間を置いてみたが、彼女に送られる視線は多くとも同伴者らしき相手は現れない。それならば、と、スザクは彼女が持っていたアルコールを全て飲み干し、もう一杯、とウエイターに注文しようとしているところを見計らって自分がキープしていたワインのボトルを差し出した。因みに一緒に飲んでいた友人は既に姿を消している。彼もおそらくどこかで新しい飲み相手を見つけていることだろう。
「……?」
 彼女は差し出されたボトルに、首を傾げながらスザクを見た。アルコールの所為で上気した頬。真っ赤な唇は、生来の物だろうか。正面から見据えられて、スザクの心臓は跳ねる。でもきっとそれは自分もまたアルコールを摂取している所為だろうと自分に言い聞かせながら、彼女と向き合う。不思議な色合いの瞳は酩酊しているようにも見え、それが余計にスザクを煽った。
 スザクはウエイターにワイングラスをと頼み、胡乱げに見上げてくる彼女ににっこりと笑いかける。
「ひとり?」
「……ああ」
 うん、でも、ええ、でもない返答は彼女の性格を表すようだ。第一印象が大事とは良く聞くが、彼女の場合は容姿が既に他人の目を惹きつけるものだったので、歯切れの良い声は好印象を増すものでしかない。
「隣、いい?」
 と、声をかけながらスザクはちゃっかり彼女の脇を陣取った。タイミングよく差し出されたワイングラスを彼女の手元に持っていき、片手でワインを注ぐ。
「お近づきの印に」
 例えばもし、彼女をよく知る知人なり友人なりがここに居たならば、こんな胡散臭い軟派な相手の差し出したワインを手に取ったことに驚愕したことだろう。――スザクだとて、この時、彼女がこうして相手をしてくれなかったら、おそらく彼女との縁が出来ることは一生なかっただろうと後になって思う。アルコールの力は偉大だ。ついでに自分ではなく、他の男が声を掛けていたら、と思うと、ぞっともする。実際、ひとりで酒を浴びるように飲んでいた美女(というに相応しい容姿なのだ彼女は)に向けられる視線はとても多かった。隣に立ってみて、スザクもそれを実感する。が、お生憎様、彼女はそんな男達の視線には一切目もくれずにただ与えられるワイン、カクテル、ビール、ウイスキー、果ては日本酒焼酎区別なく浴びるように飲んでいた。
 要は、それだけ彼女は荒れていた。とても気に食わないことばかりだった。何が、ではない。全てだ。彼女を取り巻く全てに彼女は腹を立てていた。
 会社、上司、同僚、人間関係、父親、見合い、仕来り、男、何もかもだ。何もかもが全てうまくいかない。彼女に言わせればこの日は人生最悪の日。むしゃくしゃして、初めて一人でこんな酒を飲んだ。飲み方を知らないわけではない。ただ普段からあまり飲む方ではない。前後不覚になるまで飲むなんて人生初めてのことで、この場合は運が良くと言うべきか、悪くと言うべきか、スザクと出会ってしまった。捕まってしまった。
「――だいったい、あのクルクル親父ッ! 何が儂が認めた相手だから大人しく見合いしろだ! 冗談じゃないっ! あんな男の言いなりになって溜まるか! しかも何なんだあのババアは! ネチネチネチネチ、人のやることなすこと揚げ足とって…! 一体、私が何をしたっていうんだ! 社長の息子に色目なんざ使ったことなんてないしそもそもあんな使えない馬鹿息子なんてとっとと首切って追い出してしまえばいい!」
 社会人は大変だなあと暢気に口出しなんてしてしまったら、怒濤の如く責め立てられた。
「はっ、お前は脳天気な学生様か! いいご身分だな! どうせお前もあと一年もすればただ会社の歯車になって上に言われるが如く奴隷のように働かされるんだ! 毎晩上司の愚痴と陳腐な説教、ご機嫌取りのお酌にお局の嫌味と馬鹿な同期との付き合い! ――――やってられるか!!」
 ばんっ!! と、持っていたグラスジョッキをテーブルに叩き付ける。残っているのは氷と身が砕けたライムだけだ。
 聞くに、彼女はスザクと同い年だった。大学に入る際にスザクは一浪している。
 ストレートで四大に入学、卒業した彼女は、ただ良い所の娘さんだったのだろう。父親の経営している会社の関係会社に入社を強要させられたものの、どういう訳か別姓を名乗っている為に会社では社長令嬢であることは知られていないらしく。入社一年目の女子社員。配属されたのは庶務ばかりの事務所で、渡される仕事は単調な物ばかり。その割りに見目が良いから男の上司にはセクハラ紛いのことをされ、女の上司には下らない嫌味を言われ、同じく同期の男には下らない色目を使われ、女子には一部からやっかみを受けているとか。社会人になって早数ヶ月。ひとりでこんな所で飲んでいるくらいには荒れていて、ただし金には困っていない模様。何でだと好奇心でスザクが問えば、危ない遊びだ、と彼女は実に魅惑的な顔で微笑んだ。心臓がその時に跳ねたのは、男として間違っては居ないだろう。
 その危ない遊びとやらが大学時代から続けていた賭けチェスであり、引いては彼女が負け知らずの知力を有していたこと。そして彼女の実家というのがおそらく誰もが耳にしたことのある大財閥であり、父親が彼女に期待してわざと自分の会社にコネなし放り込んで実力で這い上がることを期待しているほどの能力を持っていたこと。本人も普段は切れ者であり、また性格も男勝り、一般の男からしてみればいわゆる高嶺の花であること。――そんなことを全く知らないスザクと、そうしてそんな普段の様相とは全くかけ離れた状態で居た彼女と。
 交わしたキスは、とてもあまやかだった。




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