いつの間にかルルーシュの表情からはそれまでの放心したような色が消え去り、かと言っていつもの穏やかな顔でも、ましてや厳しくもない。何かを諦めたかのような、もしくは悟ったか。驚いて振り返ったスザクに対して、緩く首を振った。

「……もう、いいんだ、スザク」

 小さな声で、スザクを諭すように。その意味が理解できなかったスザクは眉を盛大に顰める。なにが、と視線で問えば、ルルーシュはスザクではなくジェレミアに顔を向けた。
「兄上はお変わりなく?」
 その態度はジェレミアに対して今までで一番落ち着いたものだ。ジェレミアもそんなルルーシュに落ち着きを取り戻したのか、スザクに向けていた敵意を潜め頭を下げる。
 ルルーシュが問う『兄』が誰かなど、彼を知る者ならば悩むまでもない。
「は。殿下方が本国を出られてからは、それまでに任されていたエリアの調停を終わらせ、本国にご帰還されておりました。その間、……マリアンヌ皇妃の件をコーネリア殿下と共に調査されながら、日本…エリア11との交渉を」
「………母さん、の…」
「……その件は、誠に申し訳ありませんでした、ルルーシュ殿下……っ!離宮の警備を任されていたのに、マリアンヌ皇妃をお守りすることができなかった私は本来ならば殿下に顔向けできぬやもしれませんが…っ」
「…………」
 ルルーシュの表情は暗く落ち込む。ルルーシュからの断罪を待つつもりなのか、言葉を継ぐことができないジェレミアもまた必死の表情。会話についていけないスザクはただ狼狽。
「……兄上は、何か真相を?」
 ルルーシュはジェレミアを責めることはしなかった。その代わり、赦免もしない。
 ただ先を促すルルーシュにジェレミアも従う。
「いえ…少なくとも私は聞いてはおりませぬ。ただ、やはり内部の犯行との見方は最初から」
「そうか……」
 皇妃の殺害。スザクは知らない。ルルーシュが忌々しい出来事を話すわけもなく、最初に彼らが枢木家に送られてきた時、情報として彼らの母親はテロリストに殺害されたのだと耳にしたくらいだ。だからついスザクは「ルルーシュ?」と口にしてしまっていたのだが、無論ルルーシュが事細かに母親の殺害について語るはずもない。
 少しの間、じっとスザクを見詰めたルルーシュは。スザクがもう一度、ルルーシュ、と口を開こうとした瞬間、「ナナリー」と視線を逸らした。
「はい、お兄様」
 それまで空気のように黙っていたナナリー。目が見えない彼女だったが、その態度は随分と落ち着いている。まるでルルーシュが何を言おうとしているのかも、察しているようで。
「…いいかい?」
 実際、察していたのだろう。それだけを問うルルーシュにも、スザクが何のことかと問うまでもなく、ただ頷いた。
「ナナリーはお兄様が決めたことについていきます」
「……ありがとう、ナナリー」
 泣きそうに顔を歪めたルルーシュが、このとき、何を思ったのかスザクにはわからない。ただ、ルルーシュが必要なのは相変わらずナナリーだけで、自分は捨てられたのだと――次のルルーシュの言葉で、絶望した。

「ジェレミア。本国へ戻る。手配を」

「ルルーシュ?!」
「は、はっ! 直ぐに!」
 先に声を荒げたのはスザクで、その直後にジェレミアが反応。驚愕に戦くスザクとは逆に機敏な早さでジェレミアは身を翻し、控えていた部下に何事か叫んでいる。
 慌ただしくなった周囲を確認することもなく、スザクは茫然とルルーシュを見詰めた。
「ルルー、シュ……?」
 まさか彼がブリタニアに帰るだなんて思わなかった。それも自分から帰ると宣言するなど、とんでもない想定外のことで。事態に理解が追いつかないスザクに、ルルーシュは申し訳なさそうに視線を合わせながらも眉を下げる。
「……今まで、ありがとうスザク。…すまなかった」
「な、」
 感謝と謝罪。別れを告げるかのようなそれに、衝撃を受ける他ない。更にルルーシュは続ける。
「君に日本で出会えて、本当に良かった。助けてくれたこと、…今まで一緒にいてくれたこと、本当に感謝している」
 どこか畏まった言い方。しかしルルーシュの言葉使いはもともとこんなものだったか。どうでもいいことが頭に浮かぶ。
「……僕はブリタニアに戻るけれど、いつか日本を君に返す、から…」
 そんなこと、できるものかと。
「だから、君は元気で――」
「ふざ…っ――けんな!!」
 気付けば大声で怒鳴っていた。ビクリ、と怯えるルルーシュに構う余裕もなく、一度溢れたそれは止まらない。
「ふざけんな! 何でだよ?! 何でっ、ブリタニアなんかに…っ、戻る、なんて! だってお前、ブリタニアが嫌いだって、あんなに、憎んで!」
 ルルーシュの祖国に対する感情は、憎悪ばかりが印象に残っていて。――僅かに垣間見た、穏やかな記憶は、このときのスザクには思い出せなくて。その記憶がルルーシュを支えていたことに、スザクは気づけなくて。認めたくなくて。
「どうしてブリタニアに戻るなんて言うんだよ! 俺が…っ俺が、お前たちを守る! お前のことも、ナナリーのこともっ! 俺が、守るから…!!」
 だから行くな。帰るなんて言わないで。痛切な叫びも、ルルーシュは聞き入れてはくれなかった。
 怒りながら懇願するスザクを見れないのか視線を外して、また首を振る。否定の意。
「……すまない、スザク。これ以上、君に迷惑はかけられない」
「迷惑だなんて誰が言った! 俺は」
「それに僕は決めたんだ。――兄上の下で、ブリタニアを変える」
「な」
 ルルーシュの宣言に虚を突かれた。
 意志の強く籠もった瞳はスザクを黙らせるには十分すぎる威力があった。
「兄上ならば、きっとそれは可能だ。それにナナリーも本国で治療することが一番いいんだ。…だから僕はブリタニアに戻る」
 本当はスザクの言葉通りブリタニアは憎い。帰りたい気持ちはないのかもしれない。その代わり、戻らなければならないという思い。
 ルルーシュの居場所は、スザクの隣である日本ではなく、兄の下というブリタニアだった。
「……きっと、君は僕を許さないだろう。君の国を奪ったブリタニアに僕は結局戻るから……でも、スザク。僕は君に必ず日本を返すと約束する。ブリタニアを変えてみせると、君に、約束する」
 それはまるで宣誓のような。
「だからスザク。――君のことを、離れていても、友だちだと思っていても、いいだろうか?」
 揺れる瞳。大きな双眸は今にも涙が流れ出してしまいそうなくらいに滲んでいて、そんな顔を見せられては、どうして、という気持ちがまた沸き上がってくる。けれどもうルルーシュが決定を覆すことはしないことだけがよくわかってしまう。
 スザクも泣きたいくらいだった。悔しい。引き留められない自分。ルルーシュは望みを持った。共に在れないのだと、決別された。自分には力がないことを思い知らされた。
「ばっ…かやろう…!! 当たり前だろっ!! 俺と、お前は…っ、友だち、だ…!!」
 悔しくて悔しくて、泣くしかない子どもの自分が歯痒い。
 ブリタニアでルルーシュを待つ存在が憎い。帰る存在であることが羨ましい。
 自分がひとり取り残されたことが悲しい。
「ありがとう、スザク」
 スザクの頬に流れる涙を拭う小さな手。この温もりに触れることができるのも最後だと思うと、涙は止まる事を知らず止めどなく流れるばかり。ルルーシュが「君って意外と泣き虫なんだな」とか言うから、「うるさい…っ!」と自分でもゴシゴシと目元を拭った。そういうお前だって泣きそうなくせに、とは言えなかった。
「待っていて、スザク。僕は君との約束を必ず果たす。ナナリーに優しい世界も必ず作ってみせるから、その時まで……」
 待っていて、と言おうとするルルーシュに、スザクは力いっぱいに答えていた。
「嫌だ。お前のことを待ってるだけなんて、冗談じゃない。俺だって、強くなる。そしてお前とナナリーを守ってやる!」
 宣言に、ルルーシュはきょとんとあどけない表情。
 次第に破顔し「ありがとう」と言った笑みは、ナナリーに向けるものとよく似た、とても華やかで優しい、綺麗なものだった。


「ルルーシュ殿下、そろそろ…」
「……ああ」
 ルルーシュの邪魔をしてはならないと様子を窺っていたジェレミアは、一段落した様子とこれ以上は待てないとばかりにルルーシュを促す。
 頷いたルルーシュにジェレミアは彼の代わりにナナリーを背負うと申し出たが、勿論ルルーシュはそれを断り自分の背に彼女を乗せた。
 最後にもう一度スザクを見たルルーシュの顔に、もう迷いはなかった。
「…それじゃあ、スザク」
「スザクさん、いろいろとありがとうございました。スザクさんと一緒にいた時間、とても楽しかったです」
 ルルーシュの背中から挨拶を交わすナナリーの頭をスザクは軽くぽんと叩く。本人は撫でたつもりだったが、どうにも傍目には荒い作法に見えてしまったらしく、ジェレミアは相変わらず盛大に眉を顰めたが慣れたルルーシュが何も言わなかったことからどうにか文句を抑えたらしい。ナナリーはくすぐったそうに笑いながら、スザクの手を取った。
「私、スザクさんに撫でられるの、お兄様の次に好きです」
「ルルーシュの、次?」
「はい。次です」
 ナナリーにとって兄はどんな時でも一番。つまり、その次、とは二番目を指していて。満足げに笑ったスザクだったが、『一番』を断言されたルルーシュの顔が優越感に満ちているのを見たら、どうにも悔しくなってしまったから。
「俺はルルーシュなんかよりずっと頼りになるぞ! いいか、ナナリー。誰かにイジメられたら直ぐに俺に言うんだぞ。ブリタニアだろうがどこだろうか、飛んでいって相手をぶちのめしてやるからな!」
「スザク! 粗野な言葉遣いをナナリーにするなと何回言ったらわかるんだ!」
 間に挟まれたナナリーはクスクスと慣れたやり取りに笑う。
「はい、スザクさん。私とお兄様がイジメられたら、ちゃんと助けに来て下さいね」
「ああ、任せろっ!」
「ぼっ、僕は君の助けなんか必要ない!」
「強がるなよルルーシュ。泣いたって知らないからな」
「泣き虫は君の方だろうっ!!」
 顔を真っ赤にして怒鳴る姿は年相応。そんな姿を初めて見たジェレミアはしばし驚き声が出なかったらしいが、いい加減、時間も限界だったのか。
 控えめに「…殿下」と声をかければ、賑やかだった少年たちは、水を打ったよう静かになった。
 別れの時からは、逃れられない。
「……ジェレミア。スザクを、キョウト六家の皇か桐原に必ず無事に送るよう、手配を。無体な扱いは絶対に許さない」
「……は。殿下のご命令通りに」
 敬礼するジェレミアを信じていないわけではない。しかし制圧したばかりのエリアに対して支配者たるブリタニア人はナンバーズと称した人々を蔑む。しかもスザクは年端もいかない子どもで、亡き枢木首相の唯一の嫡子。本来ならば相応の立場に居て然るべき身分だというのに、今、この状況では、ブリタニア人を相手にそれを望むのは不可能だといえる。
 せめてと無事にキョウト六家のスザクを庇護してくれる家元に送り届けることが今のルルーシュには精々。こうして自分に頭を下げるジェレミアが珍しく、本来は自分もまた捨て置かれた皇族。無力な自分を情けなく思えばこそ、本国で力を得なければならないという気持ちは膨らむばかりだった。
 ルルーシュも、そしてスザクも、幼く力の無さを悔やみ、――そうして決意する。
「それじゃあ、スザク。また、いつか」
「っ、ああ…っ」
 明確な再会を約束するわけでもない別れ。素っ気なくも背中を向けてしまったルルーシュとナナリー。それが彼の精一杯の別れ方なのだとわかって、スザクも倣うようにそれに従って。次第に遠ざかる背中と、引き離すように己の腕を粗雑に引っ張る大人の力。それが自分を知人の元へ連れていこうとしているのだとわかっていても大人しく従う気になれなかったのは、行ってしまう背中を未練がましくも見失いたくなかったから。
 動こうとしないスザクに焦れたブリタニア軍人が、よりスザクの腕を乱暴に引く。体が斜めになった。
 視界がぶれたのが引き金だった。

「ッ――――ルルーシュっ!!」

 腹の底から叫ぶ。懲りず、ルルーシュを引き留めようとするスザクに苛立ったのか、スザクの腕を引いていた軍人は「おいっ!」と怒鳴り声。構わずにスザクは叫んだ。
「ルルーシュ! ルルーシュッ!!」
 いい加減にしろ、と怒る軍人はスザクを羽交い締めにしようとしたが、渾身の力で抵抗。いくら天賦の才に見込まれてるスザクも、単純に大人の力には敵わない。けれど必死に抵抗すれば、背後の騒ぎに驚き振り返ったルルーシュの姿が確認できて。間の距離は、とても遠いけれど。スザクは、ありったっけの思いを込めて、叫んだ。

「――俺が…っ! 俺がっ、絶対にお前を守るからな!! お前とナナリーのことは、絶対に俺が守るから…っ!!」

 届け、届け、届け、と。
 振り絞った懇願。聞こえていたかはわからない。けれど、視覚で捉えるにも難しい距離の向こうで、ルルーシュが笑ったのがスザクにはわかった。
 肯定も否定もしない。できないのだと、諦めにも似た。それが逆にルルーシュの望みにも、スザクには思えた。
 だから。
「――――絶対に――――!!」
 守るから、と。
 そのままナイトメアフレームの手の内に守られるよう覆われてしまったのが、ルルーシュとナナリーを見た最後だった。飛び立ってしまったナイトメアは、ルルーシュたちをブリタニアへと連れ去った。
 ぽつりと残されてしまったスザクは、影も見えなくなった虚空をいつまでも見上げていた。力なくなった体を引きずられるように運ばれた間も、ただただ、彼らが消えてしまった空を見つめていた。


 この日、スザクは悔しくて泣いた。
 そうして決意したのも、この日のことだった。




 これより数年後、枢木スザクはルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの騎士になる。






16. 風に攫われていく雲を見上げて走って追いかけて転んだ。


きな子/2008.03.11