頬に手を突いて、少し俯いた姿勢。長い睫が宝石みたいな瞳を半分隠してしまっているのが残念なくらい。
 男性(ああ、彼は自分とは身体の作りが違う男の人なのだ)にしては細い指が動く毎に紙が擦る音。真剣なようにも、退屈なようにも見える表情で本を読むあなたは私の方などちらりとも見てくれなくて、それがとても不満。
 けれど、私はそんなあなたを観察しながらも先生に課せられた宿題を片付けなければならなくて。
 ただでさえ分厚い本を読むのに私は一苦労しているというのに、もっと難しい本をスラスラと読んでしまってるあなたがずるい。以前、口を膨らませてそんなことを言ったら、あなたは困ったように笑ったわ。それから本を読む面白さを語ってくれて、私はほんの少しだけ、本を読むことが好きになった。あなたに少しでも近付けるようになりたくて、お姉様にも内緒でこっそり難しい本を読んでみたけれど、やっぱり私には難しかった。それは投げ出してしまったけれど、私にできることを少しずつ勉強したいと思っていることを、あなたは知っているかしら?
 ……ああ、そうだと言うのにさっきから全然進んでないわ。
 だってつまらないのですもの。こんな本を読ませて感想を書きなさいなんて、先生は私にどこか他国へ嫁がせたいのかしら。
「………ユフィ?」
 けれど私は好いてもいない人のところへ嫁ぐなんて嫌よ。お姉様みたいに…………というのは無理かもしれないけれど、せめて自分の力で誰かの役に立つことがしたい。お姉様だって私が本当にやりたいことを見つければ、きっと理解して下さるはず。
「ユフィ?」
 それにあなた以上に好きになれる人なんて居るのかしら?
 こんなに綺麗な黒髪を他に見たことないし、紫の瞳はいつも吸い込まれそうに魅入ってしまうくらい。私が大好きなあなたのお母様みたいに穏やかに笑うのに、時に見せる涼やかで怜悧な双眸。異母兄様を相手にチェスをしている時の顔は私相手には決して見せてくれない表情だから、それを横からこっそりと覗くのがとても好き。
「ユフィ」
 それとあなたの声が好き。昔よりも随分と低くなった声は、私を置いて大人になってしまったと悲しくなったこともあったけれど、あなたは変わらなく優しい呼びかけをしてくれて、耳に溶け込むような響きはとても落ち着く。あなたが私の名前を呼んでくれるのが嬉しくて、

「ユフィ!」

 嬉しくて――――。

「………え?」

「え?じゃなくて、どうしたんだ?ぼうっとして……」
 気付けばあなたの顔が眼前にあって、久しぶりにこんな近距離でみる顔。驚く前に、何事か理解できなくて。
 何回も呼んだのに、と呟くあなたに、どうやらちっとも気付いていなかった私は慌てて謝った。
「ごめんなさい、ルルーシュ。私、ちっとも気付かなくて……」
「いや、謝らなくてもいいけど、……具合でも悪いのか?」
 顔を覗き込まれて、漸くあなたととんでもないくらいの近さで顔を付き合わせていることに気が付いた。(なんて迂闊!)条件反射のように体を後退させてしまったことを、あなたは気に留めた様子はない。それにちょっと安心して、ちょっと残念に思ったなんて、身勝手なことかしら。
「顔色は悪くなさそうだな」
「………別に具合は悪くありません」
「そうか?いやにぼうっとしてたから、気分が優れないのかと思った」
 心配ないようだな、と言われて、心配してくれたのだと知る。心遣いが嬉しい。
「大丈夫よ、ルルーシュ」
「うん、なら、よかった」
 安心するように笑うあなたに、もっと近くでその笑みを見たかったと後悔。けれどこの距離感を保つことが精一杯で、安堵した気持ちも大きい。
「宿題は全然進んでないみたいだけどな」
 一転、茶化すような口調。え?と一拍遅れてつられるように指を差された私の手元を見てみると始めた頃から全く変わらない白紙の紙が一枚。指摘されて恥ずかしくなって、顔が熱くなったのを自覚。きっと頬は真っ赤だわ。
「こっこれは…!」
「ずっと上の空みたいだったけど、何か考えごとでもしてたのか?」
 問われて、また頬が熱くなったような気がした。気付かれてなければいいのだけれど、と、心の中で思いながら、もしかしてずっとあなたのことを見ていたことも気付かれてしまったのかしらと思えば焦る気持ちもある。ずっと上の空だったとあなたは言うけれど、ずっと、って、いつから?
「……顔も赤いみたいだな……やっぱり体調が悪いんじゃないのか?ユフィ」
「えっ?っえ、えっ?!」
 ひんやりとした感触が額に伸びたのはその時だった。
 それは避ける間もなく私の熱を吸収して、じんわりとした温かさが広がる。冷たい手は気持ちよかったけれど、融和するような熱はとても心地が良くて。けれど固まってしまった身体は、緊張から。
「……やっぱり熱いな」
「そ、そう?ルルーシュの手が冷たいのよ…」
「少なくとも俺の手はクロヴィス兄さんのよりは熱いよ」
 芸術をこよなく愛する三番目の異母兄様。あまり頻繁にお会いすることはないけれど、アリエスの離宮で偶に会う時はいつもあなたとチェスをしているか或いは絵を描いていらっしゃった。その絵はとても優しくて、異母兄様の性格を垣間見た気がした。同時に、異母兄様も私と同じようなあなたを愛しているということを、あなたが描かれた絵を通して感じた。
 異母兄様に私とあなたの絵を描いて欲しいとこっそり頼んだこともあったけれど、私は異母兄様の手の体温は知らないから、比べようもない。
「クロヴィス兄様の手は冷たいのですか?」
「冷え切ってるわけではないけどね。それを言うなら、シュナイゼル兄上の手の方がもっと冷たい」
「まあ」
 それは知らなかった。何度か二番目の異母兄様には頭を撫でてもらうことがあったけれど、緊張の方が先にあって手の温度を気に留めることはなかった気がする。
 大きな手―――あなたよりも。
 そんな印象ばかりが先走っていた。
「…そんなことよりも、ユフィ。本当に体調の方は大丈夫なのか?」
 話を戻すように聞かれて、私は首を縦にも横にも振れなかった。言われてみると不思議なもので、確かに頭がぼうっとしないでもない。けれどこの状態が自分の体調の所為なのか若しくは今の状況の所為なのかがわからなくなってしまって、少し困ってしまった。ただ、お医者様を呼ぶほどのものではないし何よりもあなたと居る時間が終わってしまうことが嫌で、咄嗟に大丈夫と答えていた。
「まだ宿題も残っているし……」
「そんな下らない本、ユフィは読む必要ないよ」
 思いがけないことを言われ、目を丸くしてしまった。言葉通り、丸くなったことがわかった。
 私の額にあったあなたの腕がそのまま課題の本を掴み、流れるようにあなたはそれに目を通す。数秒もしない内に、言わんことないといった様子で本は閉じられてしまった。栞を挟んでいないからどこまで読んでいたのかわからなくなってしまったわ。……なんて抗議、そもそも殆ど読んでいなかったに等しい私にできるはずもなくて。
「望んでもいない男のところへ嫁ぐ心構えや作法なんて、ユフィには必要ないよ」
「……けれど皇女として生まれた以上はその覚悟は必要ではなくて?」
 そう口にしてみたものの、そんな覚悟は持っていないけれど。
 慣例の話。絶対的な権力を生まれながらにして持った立場は、絶対的な不自由を抱えてもいる。
 ただ、それくらいのことがわからない程、無知ではいられなかった。
「そんな覚悟、ユフィがする必要はない。姉上が先ず許さないだろうし、俺だって君にブリタニアなんかの為に望まない婚姻などして欲しくない。そんなことがあれば、俺はなにがあろうと阻止するよ」
 どうしましょう。
 その言葉がとても嬉しくて嬉しくて、とても苦しい。
「……それはナナリーも?」
 震える声帯を抑えることができているかが不安。けれどあなたは私を穿った様子もなく、「当然だ」と言うものだから、その一言に安心した。
 泣きたい気分になったのも、これで笑って誤魔化してしまえる。但し、クスクスと笑えばあなたはじとりとこちらを睨んできた。
「……ユフィ、どうして笑ってるんだ?」
「だってあんまりにルルーシュらしくって、つい」
 私の異母妹でもある少女のことになると、本当にとてもわかりやすくて。それが羨ましかった時期もあった。けれど今はそれにほっとしてしまう。あなたが変わらないという証。あなたが変わらなければ私も変わらないで済むという安心。
 それはずるいかしら。聞くことは、叶わない。
「……ああ、笑ったらどうしてか眠くなってきてしまったわ」
 どっと力が抜けたからかしら。つい口を滑らせれば、あなたは複雑そうな顔。
「………俺としては如何とも言い難いのだが…―――眠いのなら、寝た方がいい」
「でも私が寝てしまえばルルーシュは行ってしまうでしょう?そんなのは嫌です」
 不思議と、そんな我が儘がするりと口から出てしまった。眠気から深く考えないで発言してしまったのか、何にせよあなたは驚いたように目を丸くしてる。さっきの私と立場逆転。
「せっかくルルーシュが来てくれているのに、もったいないわ」
 更に大胆なことを言ってしまった。けれどやっぱり不思議といつもなら覚える恥ずかしさはない。
 少しばかり呆気にとられたような顔をしていたあなたは、目をぱちくりとしながら(かわいい、と思ってしまった)私を見つめている。何だかとても心地がよくて、より一層、眠気が押し寄せてきた。
「……じゃあ、俺はユフィが起きるまでここにいるよ」
 思いがけない提案にびっくりするのは、今度は私の番。
「ほんとう?」
「ああ。まだ本も読み終わってないしな。―――だから、安心して眠るといい」
 そうと言われたら、睡魔は本格的に私の意識の中に入り込んできた。もう思考は随分とぼんやりしていて、あなたが笑っていることにも、いつの間にか私の側に来て、私の身体を支えて、私を寝台まで運んで、横たわらせてくれたことにも、全て終わってから気付く始末。
 背中からふわりとシーツの海に沈む感覚はとても気持ちよかったのだけれど、あなたの腕が離れてしまうことが残念だったところまでは覚えていた。
「……お休み、ユフィ」
 その一言がどんなに上手な子守歌よりも、私を幸せな夢の世界へと誘う。
 もう現実と夢幻の境界は曖昧で、ただただ浮遊感がふわりふんわりと心地よい。

 ――――ルルーシュ。

 あなたの名前を呼んだ。
 まるで幸福の呪文のようだわ。―――あなたが微笑んでくれたような気がしたのは、夢かしら?それとも現実かしら?
 どちらでも構わない。どちらでも私は幸せ。


 束の間の時間に、私は今度こそ意識を閉じた。



14. 夢の狭間で君が僕の名前を零す、それだけで緩むこの頬をどうすれば




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一人称は楽しい、けれど。
きな子/2007.09.30