ああ、そうだ。空に視線をふいと向けた異母兄の態度にルルーシュが嫌な予感を覚えたのは、その声音が実に態とらしい物であった為だろうか。
 ルルーシュ自身にも執務室は与えられていたけれど、能率を考えれば同室で行った方が断然捗る。仕事にもプライベートにも無駄のない相手だからこそ、四六時中側にいることになってもストレスにはならない。なのでこうして異母兄と同室での執務を行うことが定常となっていた。
 …が、時にこれ以上とない厄介事を押し付けてくることもある相手だからこそ、油断はできない。
 何ですかと胡乱げに応えれば、ルルーシュにとっては非常に胡散臭い笑みをシュナイゼルは向けた。この異母兄は演技じみてさえもいる程の貌を状況と相手によって素で使い分ける。意識的でいながらその実、まったくの無意識というか本能でやってのけている節があるから性質が非常に悪い。この点に置いて、あくまで演技派であるルルーシュは一生敵わないだろうと思っている。
「今晩、スペンサー卿の夜会に招待されているのだが、私の名代として行ってきてはくれないかい?」
「……は?」
 書類にサインを記入していた手を思わず止めてしまった。インクが溜まって滲んだが、生憎とシュナイゼルを凝視しているルルーシュは自分の手元の惨状に気付くはずもない。そのままサインは中断。持っていたペンの先をスタンドに戻した。あまり重要でない書類よりも、目の前に降ってきた厄介事の方にルルーシュは頭が痛くなる。
「……ご自分で行っては下さらないのですか。どうせ、あなたが狙いなのでしょう?」
 先ほどシュナイゼルが口にした貴族の名には当然ルルーシュも覚えがあった。侯爵の地位にある当主は比較的穏やかな性質ではあったし、立場上安泰している筈。いずれは皇帝と目されている第二皇子を夜会に招待することのできる程の力も持っていることが良い証拠だ。そして彼の家は以前より、未だ独り身であるシュナイゼルによくアプローチをしていた。夜会の思惑も見え透いていたので、ルルーシュは「いい加減、身を固めたらどうですか」と嫌味を遠慮なく放った。それに応えたのは、シュナイゼルではなく室内にいたもう一人の副官だった。
「それは同感なのですけれどね。ルルーシュ殿下、今晩は行ってくれないかしら? シュナイゼル殿下、皇帝陛下からお呼びが掛かっているんですの」
 優秀であるとルルーシュも認めているカノンの思わぬ一言に、ルルーシュは眉を顰める。
「……俺は聞いていないぞ」
 シュナイゼルの補佐を任されているに辺り、ルルーシュもシュナイゼルの予定はほぼ把握している。特に皇帝に喚ばれるようなことがあれば、シュナイゼル本人がルルーシュに教えていた筈だ。それが教えられていなかった。不信感を顕わにするルルーシュに、カノンは「その通り」と言わんばかりに肩を竦めた。
「ルルーシュ殿下に言ったら必ず別の日にされたでしょうから。こうして当日に名代を頼んでいるあたり、見え見えだと思いませんこと?」
 ピクリ、とルルーシュの眉が不快げに動く。それをシュナイゼルは愉しそうに見ていた。この場合、優先されるべきは無論言うまでもなく、皇帝の謁見だ。そんなもの自分に被害が及ぶようなら蹴ってしまえとルルーシュは思うのだが、立場や時分を考えればそうもいくまい。かといって侯爵の誘いを疎かにするわけにもいかず、現状シュナイゼルの名代として顔が立つ人間はルルーシュが最適任だった。ルルーシュが断れる理由はどこにもない。
「………覚えていて下さいね、兄上。高く付きますよ」
 今日は久方ぶりにアリエス宮に帰れるかと思っていたのだ。しかし今になって思えば、それさえもシュナイゼルの策略の一部だったのだろう。
 恨みがましく言えば、シュナイゼルはさらに笑みを深めた。
「まあ、いいではないかルルーシュ。その晩餐会にはユフィも来るそうだ」
「……は?」
 今度こそルルーシュは固まった。そんな異母弟の姿が愉快でならないのだろう、ことさらシュナイゼルは愉しそうだった。
「可愛い異母妹のエスコートをしてやりなさい」
 ルルーシュは不機嫌な表情を隠さない。この異母兄に隠しても無駄だとわかっていたし、下手に取り繕えば異母兄を助長させるだけということも経験上わかっていた。取り繕う余裕がなかったとも言える。
 ただこれ以上の醜態を晒す気にはならなかったし、もう何を言ったところでルルーシュが今晩の夜会に行くことは決定している。一度だけ溜息を吐いて、机の上に溜まっていた書類を数枚手に取った。実際、仕事の殆どはもう終えていたし、後はこの書類を関係する人間に届けるだけだ。
「…本当に後で覚えていて下さいね、兄上」
 恨み節を断りにして、ルルーシュはシュナイゼルの前を辞した。
 ……して、残されたカノンもまた軽い溜息を吐く。
「よろしいのですか? シュナイゼル殿下」
 浅からぬ仲だ。感も鋭いカノンは、大方の事情は察している。
 何が、とシュナイゼルは問わない。
「アレに迷いは不要だよ。そろそろ断ち切ってもらわないと」
 シュナイゼルは微笑を崩さない。ルルーシュの去った扉を見つめる視線は異母弟に対する慈悲を含んでいるようにも見えるが、実質は正反対のものだ。そのことをシュナイゼル当人はわかっているのだろうかとカノンは思う。
「…裏目に出なければ良いのですが」
 だからついそんなことを口にしていた。それがシュナイゼルは意外だった。なぜならシュナイゼルの中で答えは決まり切っていた。彼の尺度は常に揺るがない。
「ここにきてルルーシュが力ではなく情を取るとでも? …それならばアレはそこまでの器だったということだよ」
「……その通りですね」
 シュナイゼルは疑ってはいないのだろう。彼なりの、この数年側に付けていた異母弟への評価はそれだけのものだということだ。
 そのことにカノンは同情を禁じ得ない。
 確かにシュナイゼルは皇帝たるに相応しく、このブリタニアの礎に成り得る人間だ。
(……だからこそルルーシュ殿下のような方が側にいて欲しいのだけれど)
 カノンはどちらかと言えばシュナイゼルに近しい人間だった。そしてルルーシュは、似ているようでいてまるで正反対だ。シュナイゼルはそのことに気付いていない。おそらくルルーシュも気付いては居ないだろう。2人を同時に見てきたカノンだからこそわかる、似ているようで異なる2人の差違。
 ルルーシュはシュナイゼルを選ぶか、ユーフェミアを選ぶのか。カノンはそれがルルーシュの岐路になることがわかっていた。叶うならば、ユーフェミアを選ぶルルーシュにシュナイゼルを選んで欲しい、と土台無理な願いさえ覚えてしまう。そんな自分は、やはりシュナイゼルの副官でしかないのだと、内心で苦笑せずにはいられなかった。

 有力な貴族の夜会はまさに豪華絢爛という表現が似合う。会場となる屋敷の装飾から、招かれる人にまでそれは至る。先にシュナイゼルの名代として行くことになったと伝えられていたルルーシュは、当主自らの歓迎を受けた。次期皇帝にシュナイゼルがほぼ確定している今では皇位の順序も無いに等しく、名実ともにそのシュナイゼルの右腕であるルルーシュはこの場においても最たる来賓である。当主との挨拶が済めば、次々と貴族がルルーシュの元にやってきた。さすがの夜会に招待されている地位にあるだけあって、ルルーシュも邪険にできる相手ではない。貼り付けた笑顔で握手を交わし、挨拶と2、3の会話を交える。ルルーシュとてこういった場での政治的意味合いをよくよく理解しており、与えられた役目は全うする。
 半時が過ぎた頃か、ようやく代わる代わるルルーシュに話し掛けようとする波が途切れた。内心では引き攣りそうな顔にうんざりしていたが、再び背後から声を掛けてきた侯爵に皺のひとつ変わらない笑みをルルーシュは向ける。
「いやはや人気者でございますな、ルルーシュ殿下」
「シュナイゼル兄上でなく、申し訳ないと思いますが」
「何を仰いますか。いずれ帝国宰相ともなろう御方が」
 ご冗談を、とルルーシュは軽く肩を竦める。初老の男は、まだ少し気が早かったですかなと笑う。そこで一人、使用人らしき人間が侯爵に何事かを耳打ちしていた。ああ、と侯爵が了承の意を示すと同時に、ざわりと会場が些か沸き立つ。ルルーシュがそちらへと目を向ければ、侯爵がルルーシュの脇に立って「もうお一方、本日の主役がお見えになったようです」とルルーシュに教えた。
 え、と問う前に、人垣が割れる。
 現れたのは――
「っ……」
 思わずルルーシュは息を呑んだ。
 白い騎士服に身を包んでいたのは見慣れた幼馴染み。彼が手を添えエスコートしているのは、薄いピンクベージュのシンプルなドレスを着こなし、彼女の特徴とも言える鮮やかな桃色の髪は緩く結い上げている美しき少女。
 ほぅ、と感嘆とした息がルルーシュの脇から零れる。
「さすが、お美しいですな」
 いつの間にか、ルルーシュの近くにも人集りができていた。会場の視線を一心に集めている一対のカップルは、真っ直ぐにルルーシュの元…正しく言えば、ルルーシュの隣に立つ初老の男へと向かっている。ゆったりとした足取りは優雅であり、華を引き立たせるよう付き従う騎士もじゅうぶんにその役目を果たしていた。
「あの騎士は確か、日本人の?」
 ルルーシュの隣で、男の一人が口を開く。頷いたのは、軍部に顔が利く有力貴族だった。
「ええ、彼は第七世代のナイトメアフレームを自在に操れる数少ない人材でもありますよ」
「ほぅ、それは……マリアンヌ皇妃に続く人材であると?」
 ナイトメアフレームの第一人者と言えば誰もが思い浮かべる人物の名を挙げられて、ルルーシュは苦笑いを浮かべながらも「ええ」と答えた。
「彼は母も認めている逸材ですよ」
 それに周囲の人間は沸き立った。マリアンヌが認めていると、息子であるルルーシュの口から告げられれば疑う余地はない。
 しかし、と男の一人が笑う。
「今やルルーシュ殿下やシュナイゼル殿下のお陰で、軍需に頼らずとも我がブリタニアは繁栄を続けておりますからな」
「恐縮です」
「そうなると第七世代というのも宝の持ち腐れですかな?」
「しかし技術の進歩は更なる繁栄を我が国にもたらします故。実際、彼やアスプルンド伯爵らの働きによって、時代は二世代以上進んだと言われていますから」
「それは素晴らしい」
 男達の納得した視線が騎士へと向けられる。それはルルーシュにとって喜ばしいことだった。騎士――枢木スザクは、ルルーシュが最も親しく信頼できる友だ。そんな彼をブリタニアに連れてきたのも、今の地位に立たせたのも、他ならぬルルーシュ本人であればこそ、スザクの評価が上がることは望ましい。
 そんな会話を余所に、スザクに連れられた第三皇女たるユーフェミアは、ルルーシュの脇に立つ侯爵の元に辿り着く。ドレスの裾を持ち、優雅に挨拶を交わしている。
 背後で、お似合いですな、という声が聞こえた。それが誰と誰を示すものか、わからないわけもない。ちくり、と痛んだ胸に、勝手なものだなとルルーシュは自嘲する。…が、俯いていた顔を上げたその時、かち合った視線に、息を呑んだ。
「ッ…」
 互いの動揺は声にはならなかった。それまで一度も合わなかった視線は、互いが避けていたからだ。そして今、互いがついに目を逸らせなかった。離せない。時が止まったようだった。
 簡単に2人の動揺を破ったのは、初老の男だった。
「ルルーシュ殿下、さすがの兄君もユーフェミア皇女殿下の美しさには見惚れてしまいましたかな?」
 揶揄するような声に、周囲から微笑ましそうな笑い声がこぼれる。無理もない、と誰かが言う。それくらいにユーフェミアは美しかった。この場の誰よりも、何よりも、美しかった。――それが自分だけの錯覚ではなかったことに、ルルーシュは我を取り戻す。
「そう、…ですね。ユーフェミアとこのような場で顔を合わせるのは初めてなもので…予想以上の可憐な姿に、兄として誇らしいです」
 落ち着きさえ取り戻してしまえば、ルルーシュは動揺を押し隠すことが出来た。
 よどみなく口から出てきた自分の声に、よく言う、と内心で呆れたくもなる。
 ビクリ、と僅かに震えたユーフェミアの肩に気付かなかったのは、視線をユーフェミアから侯爵の方へと移していたからだ。
「さあ、ではどうぞルルーシュ殿下。ユーフェミア様をエスコートして差し上げなくては」
「……私が、ですか?」
 ルルーシュの戸惑いを侯爵は面白そうに笑う。
「妹姫様の晴れ姿を他の男に譲ってもよろしいのですか?」
「…それは、許せませんね」
 苦笑いをしながら、ちらりとユーフェミアの背後に控えるスザクを見れば、簡単に目は合った。彼は隠さずルルーシュを睨んでいた。
(…これは踊らなかったら後で何を言われるか、わかったもんじゃないな)
 分かり易すぎる幼馴染みの態度にまた苦笑を浮かべながら、一歩前に出る。すれば、ユーフェミアはじっとルルーシュを見つめているだけだった。
(……綺麗に、なったな)
 ルルーシュが思い浮かべるユーフェミアは、まだ少女だった頃の記憶ばかりだ。
 たった2年。だと言うのに、彼女は会わない間に美しく成長していた。これはスザクにも悪いことをしたかもしれないとルルーシュは思う。これだけ美しい主ならば、周囲に何を言われたか…或いは、スザク自身も、と考えて、また馬鹿なことをと自分の考えを打ち消した。どうにも緊張しているらしい自分を省みれば、いつの間にか眼前にユーフェミアの姿があった。
「…ルルーシュ…」
 小さく呟かれる自分の名前。甘く響いてしまうそれが心地よく耳に浸透して、ルルーシュは自然と笑みを浮かべていた。
「私と踊っていただけますか? ユーフェミア姫」
「…喜んで」
 夜会の場は、皇統の異母兄妹が主役だった。誰もが2人の一挙一動に注視していた。人の目を常日頃から意識する立場にいた2人は、完璧とも言える仕草を周囲に披露する。
 手と手が合わさった。溶け合う体温がとてもあたたかい。ユーフェミがゆるりと笑う。ルルーシュの知らない顔だ。とても柔らかく、美しく、たおやか花のように。
(…こんな風に笑うんだな)
 少し大人になった彼女を前に過ぎる寂寥感は、自らの罪の証のようだ。そう思うと、奇妙に甘くも感じる。
 3拍子の軽快でありながら流れるような音楽に合わせ、ステップを踏む。昔、よく練習した光景が思い出される。そのお陰と言うべきか、ルルーシュとユーフェミアのワルツは完璧だった。
 周囲で見守っていた客人達は、麗しい男女の踊りに感嘆とした息を吐く。その内に音楽が変われば、自然と見学に徹していた客人達も側にいるパートナーの手を取って次第に広間は人で溢れた。
 少しの会話も、今は掻き消されてしまう。賑やかさに包まれたその時、踊り始めてから一言も声を発しなかった口が動く。
「ルルーシュ」
 抱き合ったまま、耳元にユーフェミアの掠れた声。
 何故だか、ひやりと心臓が早鐘を打つ。
「…何だい? ユフィ」
 しまった、とルルーシュは己の失態を自覚する。つい、昔を思い出して、錯覚を起こしてしまっていた。愛称で呼ばれたユーフェミアの身体は、ビクリと跳ねた。それは小さなものだったけれど、密着している状況では気付かずにはいられなくて。
 ゆったりと、それでも体は音楽に合わせ揺られながら。
「……聞きたいことが、あったんです」
 落とされた声は耳元で聞こえているはずなのに、拾うのがようやくなくらいに儚い。
「ユーフェミア…?」
 何か様子がおかしい、とルルーシュは思う。否、おかしいのは当たり前で、今のこの状況こそがそもそもの誤りだ。その原因は間違いようもなく自分に起因しているのだ。
 ルルーシュはこの時になって酷く後悔していた。
 何故、ユーフェミアとこうして抱き合ってしまったのか。ユーフェミアは自分の手を取ってしまったのか。ユーフェミアに手を差し出してしまったのか。どうしてユーフェミアが来ると分かっていながら、この場に来てしまったのか。全ては、過ぎたること。
 いけない。その先をユーフェミアに言わせてはいけない。
 警鐘がルルーシュの頭の中に鳴り響く。けれど、それを止める術がルルーシュにはない。
(だめ、だ。ユフィ。言うな、言うな、――言うな!)
 心の中の必死の制止もユーフェミアには届かない。
 肩を押し、ユーフェミアはルルーシュの体と距離を作る。上を向いた顔は、苦しみに歪んでいた。それでも美しかった。

「どうして、帰ってきたのですか」
 ――どうして、私の前にまた現れたのですか。

 ああ、とルルーシュは必死で涙を留めようとしているユーフェミアを前に、思慕ばかりが募るのを自覚する。
(もう、二度と泣かせまいと誓ったのに、俺は――)

 足掻いた先に、何かが残るのだろうか。
 過ぎ去ったいくつもの光景が、色を無くしていくようだった。






→きみの涙はもう厭きた

きな子/2009.10.18