正直を言えば、奇跡が起こったと思っている。

 帰りの電車はそれなりに込み合っていた。観光帰りの女性グループやカップルがちらりほらり、部活動を終えた学生たち、スーツを着込んだ中年男が同じ車内で帰途を行く。
 非日常が混在する光景ではあったけれど、都心に近付けば近付くほど、ただの日常の延長であったことを実感する。主要駅で多くの人が降り、また多くの人が乗ってきた。土曜日ともあって仕事帰りのサラリーマンは少なかったが、それでも車内は乗った時よりもずっと混んでいる。
 帰り道もスザクとルルーシュの間に会話はなかった。少しは慣れてくれたと思ったのに、行きの時の警戒心がまた戻ってしまったのか。そんな不安を覚えたスザクだったけれど、それが自分の思い違いであることを、肩に感じたあたたかな温もりで知る。
「っ……」
 ルルーシュの頭がスザクの肩に寄りかかってきた。今日、一度も感じたことのなかった、彼女の体温。
 意識的だった。警戒されては元も子もなかったから、手を引きたかったのも、肩を寄せたかったのも、抱きしめたかったのも、キスしたかったのも、ぜんぶ我慢した。衝動任せで失敗するのは一度で御免だった。だから我ながら驚異的な自制心だったと思う。
「………ルルーシュ。…寝ちゃった?」
 問いかけてみたが、返事はない。
 今日、名前を呼んだのだって、二度目だ。
 答えが返ってこないことにほっとした一方、少しつまらなくもある。
 けれど今スザクができることと言えば、肩を貸すことくらいで。無防備に投げ出された手を握りたいと思っても、それで彼女が目覚めてしまったら意味がなかった。
(………基本的に、無防備なんだよなぁ……)
 すぅすぅと寝息を立てている姿を横目でみる。あどけなく、可愛い。改めて見ると、ルルーシュの顔は健康的な肌色で、皮膚は赤ちゃん肌のように綺麗だった。化粧はしているのだろうが、睫は何もしなくとも長いし、唇も薄く赤い。稀に見る美人であることは、間違いない。
 それに今は隠されている紫色の瞳に宿った意志は、吸い込まれそうなくらいに強い。声もハスキーながら快活な話し方だったし、立ち振る舞いも堂々としている。仕草ひとつだって、品の良さがある。
 故に、一見したら彼女はとても近付きがたい印象を見る者に与える。隙がないように見せかけ、性格も見かけ通りだったから、彼女に近付こうとするにはなかなか勇気がいるだろう。
 が、よくよく見ていれば、彼女の性格は確かに居丈高な部分もあるが、根底で甘い。感情に素直だったし、おそらく本人が思っている以上に彼女は優しい人だ。好意を持つ相手を語る時の甘さを含んだ双眸、声、語り調子、彼女は自分でわかっているのだろうかとも思う。
 そして立ち振る舞いに関しても、武道全般を嗜んでいるスザクにしてみれば隙だらけだった。あくまでスザク視点での話なので、普通は見かけや態度から隙は見られないだろう。本人もそこは割と意識的らしい。ただ、ふとした時―― (本当に、気付いてなかったんだろうなぁ……)
 今日、たまたま本屋で彼女を見かけた。そう言ったら、彼女は驚いていた。
 ――けれどスザクは、その偶然は今日が初めてなどでは決してなかった。
 思い返す、1ヶ月前。彼女と出会って、逃げられた日。その数日後、スザクは彼女を見つけた。それは本当に偶然でしかなかった。たまたま卒論に必要な本を急遽探さなければならなくなって、昼休みに品揃えの良い駅近くの本屋へと駆け込んだ。そのとき、スザクが決して立ち寄らないだろうジャンル(起業だ経営だ政治学だにスザクは興味はなかった)のコーナーで、彼女は本を手に取っている姿を視界が見逃すことなく捉えた。急がなければいけなかったのに、まさかと思わず足は棒立ちになり、彼女を食い入るように見詰めた。けれど彼女は一切スザクの視線には気付かなかったし、時間を確認したら手に取っていた本を持って、スザクが立っているのとは逆側のレジへと向かった。そのまま本を購入して、スザクには目もくれずに本屋を後にしてしまう。その様子を、スザクはずっと目で追いかける他なかった。あまりに彼女がスザクの存在に感知すらしないものだから、別人なのかという疑惑も生まれた。…けれど、その数日後。それから毎日のように同じ時間帯に本屋に通ったスザクは、また彼女の姿を見付けて、彼女で間違いないと確信する。近辺の会社に勤めていることは知っていた。読書家であろうことは想像に容易い。合点がいったスザクは足繁く昼食時の本屋に通い、彼女の姿を何度か目に留めていた。
 それでもスザクが彼女に声をかけなかったのは、丸きり彼女がスザクのことを覚えていなかったからだ。一度、目が合ったことがあった。スザクは自分の心臓が飛び出すかと思った。けれど彼女は一瞬でその視線を逸らしてしまう。全く、スザクの存在を気にも留めていなかった。
 落胆どころではない。絶望にも近かった。恨みさえ覚えた。
 ――二度目の転機が訪れたのは、最初の出会いから1ヶ月が経った頃だった。
 それもまた、ただの偶然でしかなかった。
 夜の客商売は時給も良いし、スザクは自分の顔がそれなりに他人に受るものだと知っていたので、大学近くのバーでアルバイトしていた。
 そこへ彼女が友人らしき女の子2人の後に入ってきたのを見つけた時は、もう運命なんじゃないかと思った。けれどちょうど接客中だったスザクは彼女に近付くことはできなかったし、週末はただでさえ忙しい。ガヤガヤとする店の中で、それでも彼女たちの声が聞こえてきた。
 だいぶアルコールも入っていたのだろう。会話がディープなものになってきて、結婚だの何だの聴こえた時は、スザクは持っていたグラスを客にぶっかけるのではないかと思うくらい動揺した。幸いにもそんなことはしなかったが、そういえば以前も見合いをさせられそうになったとか言っていたような気がする。一気に気が急いた。横目で確認した彼女の姿が、1ヶ月前を彷彿させたこともある。いくら今日は友人と一緒だろうと、それでもレベルの高い女性グループに向けられる男たちの視線の多さといったら! 万が一、また、自分がしたように、彼女とお近づきになりたいと思うような男が現れたら……スザクは厨房に入って、誰に頼まれたわけでもないミネラルウォーターを用意する。 冗談ではなかった。彼女が他の男に声をかけられる。他の男と結婚する。自分のことを覚えていない。スザクはつい先日の躊躇いが嘘のように、自然に彼女へと話しかけていた。
 結果として、彼女は自分のことを覚えていた。けれどスザクに向ける視線に好意の欠片もなかった。投げ捨てられた5万円が、彼女との関係になってしまった。
 でもスザクはもう彼女のことを諦めることなんてできなかった。
 ――そうして3度目の転機が、今日だった。
 驚くくらい、偶然は重なる。昨日の今日、しかも休日に、彼女をいつもの本屋で見つけることになるとは思わなかった。
 ただそれこそ前日のことがあり、声をかけることは叶わなかった。けれど諦め切れないスザクは、趣味が悪いと思ったけれど、彼女の後を追った。それにもやはり気付かない彼女は、目的がありそうもなく歩いていた。時間を気にする様子もあまりない。ひとりでいるのなら、いっそのこと声を掛けてみようか(それこそ彼女は盛大に驚き、嫌がるだろうが)と、無防備な背中に一歩近付いたその時だった。スザクの前に彼女に声を掛けた男たちがいた。その上、彼女の腕を掴む。彼女も彼女であからさまな嫌悪な態度。険悪な状況だった。何故かよそ事のように、自分が正義の味方になるのは本意ではないと思って一瞬、二の足を踏んでしまった。けれど単純に男たちが許せなかったから、力の限りで男の腕を取った。スザクの姿を見つけた彼女は、ひどく驚いていた。

 ――名前を覚えていてくれたことは、スザクにとって、ただただ驚愕すべきことだった。

 だから気が大きくもなったのだろう。嬉しくて、彼女をデートに誘った。わざとそんなあからさまな単語を使った。
 そして彼女は首を横に振らなかった。それがスザクを後押しし、絶対に彼女に触れないことを条件にしたら、彼女は付いてきてくれた。
 奇跡以外の何でもなかった。

(……でも、ルルーシュには大切な人がいるんだ)
 今日だけで、彼女のことを多く知った。
 同時に、それも知ってしまった。
 相手のことを聞き出せなかったのは、スザクの弱さだ。決定打を受けることが怖かった。けれどスザクではない相手を想い笑う彼女を見て、結局、鈍器で頭を殴られたような気分だった。
 幸せにしたい相手。その人が幸せなら、ルルーシュは幸せだと言い切る。
 どれほどに大切な相手なのか。慈しんでいるのか。そんなこと、語る彼女を見ていたら一目瞭然だ。あれだけの表情をさせる相手に、抑えきれない嫉妬を覚えた。
 ただ彼女は恋人はいないと言っていた。
 だから、藁にも縋るような心地で、告白した。それは一蹴された。冗談のように茶化したのは、スザクにとって最後の防波堤を崩さない為だった。
 触れることも叶わない相手だったのか。ならば初めて会った、そして過ごしたあの夜は、何だったのだろうか。
 幸せにしたくて、幸せになりたい相手だと思った。
 今も、その気持ちが変わらないことが、スザクに行き場のない濁流のような思いを覚えさせる。
「う、ん…」
 ルルーシュがスザクの肩口で身動ぎする。これだけ近くにいるのに、スザクは彼女の手を握ることさえできない。
 物思いに耽っている間にも、車内に次の駅に到着する旨のアナウンスが流れる。いつの間にか日はもう落ちていた。電車が緩やかな速度で駅に着く。また多くの人間が降りる。ルルーシュの隣に座っていた年若い女性が降りて、前に立っていた中年の男がルルーシュの隣に座った。ちらり、とその男がルルーシュを見る。ふと視線を感じたのか、男は上を向く。スザクと目が合う。スザクはにこりと男に笑ってやった。すると男は些か顔を赤くして、慌ててスザクから視線を逸らし硬直したように前を向く。
 結局きっかけなんてこんなもので、自分の抑制心なんてたかが知れていた。
(………先に触れてきたのは、君だ)
 まだ、到着駅までは時間がある。
 それまでに彼女は起きるのだろうか。…起きた時、気付くのは、スザクの肩に寄りかかっていた頭か、それともスザクの手に包まれた手か。
 悪趣味だと言われようが、その時の反応が楽しみでならない。
 もう、気持ちは止められないところまで来ていた。
 一度触れてしまえば、欲求は高まる一方だ。彼女の小さな手を覆う手が、さらにぐっと力が入る。これが限界だろう。けれど眠る彼女の中に、何でもいい。自分の存在が少しでも流れ込めばいい。
(君が、好きだ)
 自然と溢れ出た感情。けれど、きっと信じてはもらえないのだろうなと思った。

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(10.04.12)