茶色の石壁の建物を昇った、四階のフラットが現在の住み処だ。
 木製の扉の鍵を開ければ、白い壁。床はフローリングで、最上階故に天窓から暖かな日差しが入り込んでいる。
 玄関から直ぐのところに位置するキッチンからは、コンコンと規則正しく包丁をまな板で降ろす音とコトコトと鍋が煮を立てる音。匂いは覚えのある物で、今晩の献立はクリームシチューらしい。まだ日も高い時間だしブランチを済ませた後だからがっつく気持ちはないが、空腹感を催してきそうだなあとスザクがもう一歩、踏み出した時だった。
「スザク、帰って来たのか」
「あ、うん…」
 ちょうど体半分がリビングに抜けるキッチンの入口に入った所で、包丁を動かしていた手を止めたルルーシュが振り返った。
 彼が着ているダークグレイのVネックは細身の彼には少し弛めに見える。元はスザクに合わせて買ったものだろう。足の長さはほぼ変わらないから、スウェットパンツは共用。スザクが着用したことのないブルーのストライプのエプロンは、ルルーシュ専用だ。
 スザクの姿を確認したルルーシュは火加減を抑える為に直ぐにスザクから目を逸らしてコンロに屈んだ。蓋を開けてお玉杓子でかき交ぜれば、なお芳ばしい香りが部屋に充満する。小皿に一滴垂らして、ふぅと息を吹きかけて味見。うん、と頷いた様子から、今日もまた逸品な料理にありつけること間違いない。そのまま作業を続けるルルーシュは振り返ることもなく口を開く。
「少し遅かったな?」
「え、うん、まあ…」
 問われて、そんなに遅かっただろうかと口籠もる。時計を確認しようにも、腹を抱えたままのスザクからは生憎見える時計がない。どうした? と訝しんだルルーシュが再びスザクの方へと視線を移した。その時だった。
「あ」
「あ?」
「にゃあ!」
 スザクの頓狂な声をルルーシュが反復し、それに応えるような鳴き声、と、トン! と軽やかに床を蹴る音。危ない! と思ってスザクが咄嗟に屈んだ為に、スザクの腹から唐突に出てきた小動物は片足だけで床に足を着けたが、直ぐに後ろ足を引き摺りながらも「大丈夫?!」と思わず差し出したスザクの指をカプリと噛んだ。
「いたっ!」
 仰け反ったスザクを威嚇するのは、目に特徴的な黒縁のある黒猫。
 無理に連れてきてごめんね、とおろおろと謝るスザクにも黒猫は後ろ足を庇いながらもスザクへの威嚇は怠らない。
 して、そんな光景を目の前で繰り広げられたルルーシュは。
「……スザク」
 低い声だ。いつの間にか、コンロの火は消えていた。しっかりルルーシュが消したのだろう。目の前で自分を睨んでいる猫からそろりと目を逸らせば、今度は強烈な印象を残す紫色の両目に睨まれていた。
 ルルーシュの怒りを正しく察したスザクは慌てて釈明。
「いや、だって、この子、怪我、してたし、」
 ほら、見て! と、スザクは黒猫が引き摺っている後ろ足を指差す。それをちらりとは確認したけれど、ルルーシュは再び指を噛まれて「痛い!」と声を上げるスザクを、冷めた目で直ぐに睨み返した。
「……スザク」
 笑い顔が固まる。
 一秒間に、二度瞬き。それを三度繰り返して、神妙に「…はい」と応えたのは、ルルーシュがお玉を持ったまま、それは綺麗な顔で笑ったからだ。それは彼の怒りのバロメータ。そしていつものようにそんな綺麗な笑みは直ぐに形を潜め、すぅと息を吸ったルルーシュは金切り声で怒鳴った。
「ウチは愛護団体でも、動物病院でも、猫屋敷でもないんだぞ! これで何回目だスザク!」
「だって怪我してるんだよ?! 見捨てる気?! ルルーシュがそんなに冷淡な人だとは思わなかったよ!」
 と、言ってみたものの、これまでにスザクが連れてきた怪我している野良猫の数知れず。しかも殆どルルーシュが世話をして(スザクが世話をしようと思えば、ルルーシュが世話をする手間が二倍になる)飼い主が居そうな猫には主捜しを、居なさそうな猫はきちんと世話をしてくれる施設を探しては預けている。はっきり言って、スザクよりもよほどルルーシュの方が面倒を見ている。それでもつい剣幕に押され、勢いで反論してしまえばルルーシュの怒りを更に煽ることは目に見えていて。
「餌代、薬代、包帯代、バカにならないんだぞ!」
 つまるところ、ルルーシュの怒りのポイントはそこにあった。
 家計簿を付けているのはルルーシュだ。彼は一日に一度はこの国の物価の高さに文句を言っている。これまで居た場所との落差も相俟っているからかもしれない。