スザクにとって何が地獄だったかと言えば、何もかも、としか言いようがない三年間だった。
マリアンヌの修行は千尋谷に落とすが如く、容赦なんてものはどこにもない。母国で武道を習っていた分、ある程度の耐性があったスザクでも音を上げてしまいそうな日がなトレーニング。マリアンヌの身体能力は半端なく、スザクが息を切れ切れにしても顔色ひとつ呼吸ひとつ乱れない。化け物かと思えば、無人島にいきなり数ヶ月放り込まれて、彼女は人間の振りをした鬼なのだと本気で思った。時にKMFにも放り込まれたが、基本は肉体改造がメインメニュー。けれども持って生まれた素質がマリアンヌの非道もとい徹底的なトレーニングを乗り越えさせ、マリアンヌを喜ばせさらに助長したことは言うまでもない。
そこまではよかった。マリアンヌのトレーニングは確かに死にそうな目に遭ったけれど、いざ死んではいないのだから問題ない。
ただ、この間、一切ルルーシュとの接触が得られなかったことが、スザクにとっては耐えがたかった。
マリアンヌはスザクに付きっきりだった。母親がこんなことでいいのかとスザクが思えど、こんなことは日常茶飯事だったのだと彼女は言う。元来宿り木なく奔放な性のマリアンヌは、末の姫ナナリーが生まれた数年間こそ居宮となるアリエス宮で過ごしたけれど、その後は呼ばれるがまま風が吹くまま。高名な皇妃として、KMF第一人者として、勇猛な騎士として、各地を飛び回って子どもたちには寂しい思いをさせているわねと悪びれなく言いのけた。その実情として、未だブリタニア本国には敵も多いマリアンヌは本人が居ないことによって幼い皇子皇女への風当たりを軽減させたり、共に連れて行かないことで彼ら自身に有力な皇族と繋がりを強化させようと目論んでいたことはスザクが知る由もない。もちろん、結果として二人の子どもを放置していることに変わりなく、特殊な皇族事情とは言え、言い訳はしない。
一度、スザクはマリアンヌの心情を聞いたことがある。
「結局、私はいつもこういう愛し方が最善なのよ」
ほんの少しだけ後悔を帯びた声。過去と持続を懺悔するようにも聞こえたが、スザクにその真意を知る術はなかった。
そんなマリアンヌの事情の一方、スザクにもまたルルーシュへ会いに行くどころか通信も、手紙ひとつ送ることは許されなかった。せめて元気にしているのかと聞けば、訃報も自分の耳には届いていないのだから大丈夫と何のフォローにもならない返答ばかり。
結局、彼がどうしているのか風の便りすら届かない中、三年が過ぎ去った。
――スザクにルルーシュの様子が全く伝わらなかったと同様に、ルルーシュにもまたスザクの様子が伝わることはないのだろうというのはほぼ確信に近かった。
ならば、と、三年の間に、スザクは一抹の不安を芽生えさせることとなる。
(ルルーシュは、オレのことを騎士にしてくれるのか?)
思えば、スザクはルルーシュに騎士になりたいと宣言した。しかしルルーシュの言質は何もない。マリアンヌがスザクを騎士にと言ったときも、スザクがルルーシュの騎士になるためにとはるばるブリタニアへやって来たときも、ルルーシュは驚くばかりでスザクを騎士にと望んでいる様子を、スザクは一向に思い浮かべることができなかった。
三年振りの再会には、心臓が痛いほど緊張した。
「……久しぶりだな、スザク」
この年、二人は十四を迎える。成長期の少年は互いに三年前の面影だけを残し、およそ思い描いていたものとは別物。
「ひ、久しぶり、ルルーシュ……」
ルルーシュは、さすがマリアンヌの実子だった。丸かった顔は輪郭がシャープになり、すらりとした体躯。女の子と見間違いそうな甘みは失われたけれど、未だ中性的な雰囲気は少年ながら見る人間を惹きつける妖艶さがあった。美人になってきたわねぇ、とはマリアンヌの言葉だ。私に似て、と冠を忘れなかった彼女は、己の美貌を知っている。彼女から女性らしい肉付きや皮膚の色、質、それらを男のものに取り替えたのがルルーシュの造形だ。マリアンヌ本人は、女としてその美貌を惜しげなく晒した。男のルルーシュはそれでも美しかった。美しく成長していく、その片鱗を見せつけた。
会えなかった三年間、何をしてきたのか互いに話した。そうは言ってもスザクとしてはただマリアンヌに無茶な特訓ばかりをさせられてきたために、その全貌を告げても仕方なかったし、掻い摘んで話せばそう長い話ではない。ルルーシュもルルーシュで、彼はスザクがマリアンヌに連れ去られた(語弊はない)後、二番目の皇子の下で実務を学び始めたのだと、彼もまた簡潔だった。
妙な雰囲気だ。三年間、彼の騎士になるために頑張ってきた。この日を支えにしてきた。と、言うのに、現実はいまいち盛り上がりに欠ける。スザクは間違いなく緊張していた。だからうまく話せないのも仕方ないのだと自分に言い訳を聞かせる。一方のルルーシュは、一見、緊張とは無縁のような余裕があるように見えた。何故だろう。もう少し、スザクとの再会を喜んでくれてもいいのではないだろうか。自分のためにマリアンヌの特訓を死に物狂いで越えてきたスザクに労いの言葉でもひとつ掛けてくれてもいいのではないか。スザクを待っていたと、ただ、その一言だけでも――
「スザク」
「な、何?」
ルルーシュがじっとスザクを見た。ひやりと心臓が走る。
ついに、この時が来たのだと思った。
ルルーシュの、騎士になる時が。
「一度、日本へ帰らないか?」
が、ルルーシュから発せられたのは、そんな問いだった。
「え?」スザクは彼の言葉が飲み込めない。
「日本は今、サクラダイトの拠出に沸いている。これから先、ブリタニアとの技術提携によって安定した拠出とより多くの資源確保が見込め、日本は世界でも通用する立場を築けるだろう。今、日本は躍動期だ。トップを退いたとは言え、君の父親は日本の重要な政治家だ。息子として、支えて差し上げるといい」
つらつらと並べられた言葉がスザクの耳に届く。
呆気に取られた。まさか予想もしていなかった言葉がルルーシュから告げられた。その事実が、スザクを打ちのめす。
「オレは……っ、オレはっ、ルルーシュの、お前の騎士になるために、この三年間、マリアンヌ様の元で鍛えてきたんだ……っ」
それなのに、日本へ帰れと言うのか。まるでルルーシュはスザクなど必要ないと言っているようなものではないか!
けれど言葉尻荒くなったスザクにもルルーシュは動じた様子はない。まるでスザクの言葉こそ予期していたかのような。
「……それでも母さんは、お前を騎士になるためだけの鍛え方はしていない筈だ」
「な、に……?」
「そうだろう? 母さん」
あれほどルルーシュやスザクに対して饒舌だったマリアンヌは、この時、最初の挨拶でしかほぼ声を発していなかった。二人のやり取りをただ黙って見届けるスタンスだったのか、今も、ルルーシュの問いには「そうね」と柔らかく頷いて。
「騎士になるためだけの騎士なんて役に立つわけがないわ。私がスザク、あなたに与えたのは、【生きる術】よ」
マリアンヌはひたすらスザク個人の能力を引き出しただけに過ぎない。思い返してみれば、彼女から【ブリタニアの騎士】が何たるか、或いは騎士としての嗜みのようなものは一切教えられていない。
そのことに、今になって愕然とする。スザクはルルーシュの騎士になるためだと思いこんでいた。根底を覆されて、動じずにいられる訳がない。
「スザク。お前なら、日本で、立派にやっていける。何たって母さんのしごきに耐えたんだ。お前に乗り越えられないことはない」
ルルーシュの手がスザクの肩に触れた。少し、茶化しているような声音は、スザクを慰めると同時にマリアンヌの無茶苦茶をその身で彼もまた知っているからだろうか。
「…………君は、僕に日本に帰れと言うのか?」
恨み節のようになってしまうのは抑えようがない。情けないのも、ならばどうしろと言うのか。
緩く、ルルーシュは首を振る。
「違う。追い出したいとか、そういう訳じゃない。……ただ、お前は故郷を捨てられるのか?」
「っ……?」
「俺の騎士になるというのは、お前が日本人でなくなるということだ。お前は生まれ育った祖国の為に、何もできなくなる。……例えばブリタニアが日本に攻め入ったとしても、お前はブリタニア皇族の騎士として、戦わなければならないかもしれない」
「ブリタニアがっ、日本を――?!」
「可能性の話だ。だが、国が違うということは、そういうことだ。……お前にその覚悟はあるか?」
突きつけられて、惑う、そこに、ルルーシュは一瞬の隙も猶予も与えてはくれなかった。
「ならばお前は一度、日本へ帰るべきだ。お前は自分の生きるべき場所を間違えるな」
――三年の間に、ルルーシュは変わっていた。スザクよりもよほど、大人になっているように見えた。
この差が、違いが、たまらなく苦しかった。
「……スザク。例え騎士にならず、生きる国が違っても、俺たちが友だちであることは変わらないだろう? むしろ、俺はお前と騎士という立場ではなく、対等な友でありたいとずっと思っていた」
これがルルーシュの答えだった。
スザクは藁にも縋る思いでマリアンヌを見たが、彼女にも異論はないようだった。
「この三年の経験は、必ずあなたの肥やしとなる。あなたの前途に光明あることを祈っているわ。愛しているわ、可愛いスザク」
最後に、彼女は、師らしい、母らしい、顔を見せた。
これが最後なのだと、虚ろな気持ちでスザクは餞の言葉を受け取るしかなかった。